余白論
余白について語ることと、余白そのものを知ることとは違う。
余白論、といったものが存在しづらいのは、余白を論じることそのものが、余白を消すことに繋がるからだと僕は思う。
両者は矛盾し、衝突する。
余白というのは「空間」のことで、その空間のなかに入って初めて「わかる」ことができる。
この空間という感覚が大切で、余白のある映画というとき、エンディングが突然切れているからと言って、それは「余白」とは言えない。
五十センチメートルの棒が四十八センチメートルに切られ、残りの二センチメートルを余白と呼ぶのは、余白の空間性を無視している。
夏目漱石が「I love you(愛している)」の訳として「月がきれいですね」と言えば足りる、と語ったという話がある。
出典が不明で、伝説の一つとして語られているが、これも空間を立ち上げることで相手が体感として「わかる」という意味では、余白の詩と言える。
松尾芭蕉の句、「古池や蛙飛びこむ水の音」というのも、古い池に、蛙が飛びこみ、水の音がした、という空間を描き、読み手の想像の世界で音が響いて完成する。
余白とは、空間で遊ぶことである。
そして、この「空間」に入るには、自分自身も一つの空間を内側に持っている必要がある。
失われたかなしみに余白が優しいのは、心の空間が共鳴し、扉が開かれるからである。
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