内藤礼の名言 / 芸術
内藤礼さんは、一九六一年に生まれた広島県出身の芸術家、彫刻家で、空間全体を作品にするインスタレーションを多く残している。
一九八五年に武蔵野美術大学の造形学部を卒業後、一九九一年、内藤さんは佐賀町エキジビット・スペースで発表した「地上にひとつの場所を」で注目を受ける。
以降、個展を開き、体験を演出するような繊細な現代芸術作品を残し、作品集も数冊出版されている。
二〇二〇年には、金沢二十一世紀美術館で、内藤礼さんの個展『うつしあう創造』も開催されている。
本人に密着した中村佑子監督のドキュメンタリー映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』では、途中、内藤礼さんが「撮られると、つくることが失われてしまう」と取材拒否。この逸話からも、内藤さん自身の繊細な感受性が伝わってくる。
内藤さんの作品には、造形物だけでなく、詩作品もあり、また、インタビューなども追っていると、その言葉の的確な美しさも際立っている。
以下、内藤礼さんの言葉で、主に芸術に関連するものを紹介したいと思う。
地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか。 – 内藤礼さんの制作のテーマ
場所の、あるいは物や世界の本来の姿というのは、そのままでは見えにくくなっているものです。そこに、畏れながら最小限の関わりを持つことで、少しでも本来の姿が立ち現れ、生きるようにと願います。 – 東京都庭園美術館、内藤礼×八巻香澄対談
水は輝き、風はリボンを揺らす。ただそれだけのことです。それが、何か、地上に生きていることを伝えてくれます。 – 東京都庭園美術館、内藤礼×八巻香澄対談
私はいつも受けるがわで、私にできるのは、受けとっています、とお礼をつたえることくらいです。だから何度でも何度でも、私は見ています、 受けとっていますとつたえます。光も色彩も形も眼差しも、花々も木の輝きも鳥の声も、そしてこの感情も、命も、どこからかやって来る。 – 東京都庭園美術館、内藤礼×八巻香澄対談
場所の、あるいは物や世界の本来の姿というのは、そのままでは見えにくくなっているものです。そこに、畏れながら最小限の関わりを持つことで、少しでも本来の姿が立ち現れ、生きるようにと願います。 – 東京都庭園美術館、内藤礼×八巻香澄対談
現れるものは必ず消えていくし、消えていくようなものしか現れてこない。私たちもなくなっていくものだから現れてきた。 – 内藤礼さんの言葉
自分がやっていることの中に分からないのに強く引きつけられる何かがあれば、それこそが種であり、それを育てていくことこそがモノを作っていくということだと思うんです。 – インタビュー「自然の中の作品。作品の中の自然。」
自己表現ではない芸術というものがこの世には存在します。 – インタビュー「自然の中の作品。作品の中の自然。」
つくられたものを放ち、与えられたものを返す。 過ぎゆく瞬間や偶然を信頼し、回帰のなかにいることを、 生きていることそのものからくる美しさをとおして、差し出す。 どこからか差し出されている、その返礼として。 その動きのむこうに、 愛として、かなわぬものとして、世界は持続している。 – 内藤礼、中村鐵太郎(聞き手)『内藤礼〈母型〉』
ふいをつかれ、振り返り、立ちすくみ、眼をいっそうひらくとき、私の見ているのは、つねにただ私の見ているものではない。それは、他のあなたの見ているもの、かつてあなたの見ていたもの、すでにいちどならずふかく愛されたものであるのだ。 – 内藤礼『地上にひとつの場所を』
世界は持続している。私ぬきであろうと。その幸福を知ったとき、私はもういちど私を与えられていた。 – 内藤礼『地上にひとつの場所を』
ひらいた眼をもういちどまっしろにひらいてみると、そのまましずかに、それはほんとうによろこばしくも、いつもすぐさまかなしい。 – 内藤礼さんの言葉
この世界にはほんとうはあるのに、何かのかげになって見えなくなっている名づけられぬ純粋といえるものが、ふいに人のそばに顕われてくるのを、それがどんなになにともわからないものであっても、いやむしろそれだからこそ、疑うことなくこの眼で見ようと思う。 – 作品集『このことを』
インタビューや対談であれ、作品の一節であれ、どの言葉も、言葉自体が詩でありながら、同時に意味内容は芸術論でもあるような文章が並び、そのひとつひとつが自然観や死生観にも触れている。
根底にあるのは、「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか。」という内藤さんの本質的な問いなのだろう。
自然と人間、他者と自分、生と死、それぞれの関係性が、一体どのような形で分かれ、調和されるのか。
そして、その調和を、どのようにして回復していくのか。
生きるということ、存在するということ、世界との距離の取り方を、内藤さんの言葉は静かに教えてくれるような気がする。