小村雪岱、画集と装丁とデザインと伝記
小村雪岱は、大正から昭和初期にかけての画家、版画家、挿絵画家。
一八八七年(明治二十二年)に、現在の埼玉県川越市に生まれ、幼くして両親と離別、のちに日本橋檜物町に移る。
本の装丁の他に、資生堂の意匠部に属し、香水のデザインなどを手がけた。
小村雪岱の絵は、余白と静謐とが調和し、彼自身、随筆のなかで「私は個性のない表情のなかにかすかな情感を現したい」と綴っている。
雪岱というのは画号で、本名は泰助という。
雪岱という名前の名付け親は、十四歳年上で敬愛する作家の泉鏡花。雪岱の名前の由来は、小さな村から見える雪の泰山(中国の名山で「岱山」とも書く)を意味する。
小村雪岱と泉鏡花の関係性は深く、雪岱の名前を一躍有名にしたのが、一九一四年(大正三年)の泉鏡花の小説『日本橋』の装丁である。
泉鏡花は、まだ無名の雪岱を自作の挿絵画家に指名した。
このとき泉鏡花は、作品の題名を小説完成まで知らせず、小村雪岱は「日本橋」と聞いて慌てて表紙を描き直したと言う。
隅田川の周りを蝶が舞う幻想的な表紙。日本橋は青春時代に雪岱が馴染んだ町でもあった。「濃い色はお嫌ひで、茶とか鼠の色は使へませんでした」と言うように、作風には泉鏡花の好みが反映している。
小村雪岱、『日本橋(泉鏡花著)』の装丁
小村雪岱、『悠里集(泉鏡花著)』裏見返し
同時代に挿絵やデザイン、美人画を描いた画家と言えば詩人で画家の竹久夢二がいる。
同時代人で、ほとんど同世代でもあるが、二人に交流があったかどうかは定ではない。
二人とも、装丁やデザインなど大衆文化が対象だったこともあり、正統な美術史では取り上げられることが少なかった、という共通点もある。
画家というより、デザイナーや装丁家の印象のほうが強かったのかもしれない。
また、「夢二式美人」という言葉のある一方で、小村雪岱の余白のある繊細な画風も「雪岱調」と呼ばれた(戦前は「雪岱型」と呼ばれていたようだ)。
小村雪岱『おせん 傘』 一九三七年
小村雪岱『見立寒山拾得』 一九四二年
小村雪岱『雪の朝』 一九四一年頃
小村雪岱デザインの資生堂の香水瓶
小村雪岱は、若い頃に絵を描くことに興味を抱くようになると、東京美術学校日本画科に入学し、下村観山に師事した。
卒業してからは、挿絵や装丁、デザインを担当し、泉鏡花の幽玄な感性も内面化しながら、「雪岱調」を見出していった。
多くの分野で評価され、人気を博していたが、一九四〇年、脳溢血で倒れ、五十三歳で亡くなった。
没後は、ほとんど顧みられることはなかったが、二〇〇九年(平成二十一年)の埼玉県立近代美術館での回顧展を皮切りに再評価の機運が高まっている。
小村雪岱の画集としては、手に入りづらい『小村雪岱作品集』以外に、意匠家としての雪岱に着目した『小村雪岱 物語る意匠』や『意匠の天才 小村雪岱』、また挿絵の作品集『小村雪岱挿繪集』などがある。
文章が読みたい場合は、『小村雪岱随筆集』。伝記なら、雪岱の挿絵も交えながら星川清司氏の書いた『小村雪岱』がある。
もし最初の一冊として知りたい場合は、『小村雪岱 物語る意匠』や『意匠の天才 小村雪岱』が、作品の掲載数も多くおすすめである。