小村雪岱と泉鏡花の出会い

小村雪岱と泉鏡花の出会い

「小村雪岱、一生の大半の運命というものは、泉鏡花に関したといっても過言ではなく、ある意味で鏡花の御弟子であり女房でもあった」

これは作家の泉鏡花の主治医でもあった寺木定芳という人物の言葉である。

泉鏡花は、「小村雪岱」という雅号の名付け親(小さな村から見える雪の岱山という中国の名山に由来)であり、作品という点では、泉鏡花が装丁家として指名した『日本橋』以来、小村雪岱は多くの鏡花作品を手がけ、鏡花の作風を内面化していった。

年齢差は十四、泉鏡花のほうがだいぶ年上で、もともと小村雪岱の憧れの作家でもあった。

小村雪岱が初めて泉鏡花の作品を知ったのは、一九〇四年(明治三十七年)の秋、十八歳のことだった。

東京美術学校の友人が、「鏡花の小説ほど好きなものはない」と言い、それなら一度と古本屋で鏡花の本を漁るようになったのがきっかけだった。

泉鏡花の作風が、幼い頃に両親と離別した小村雪岱の心に深く染み入ったようだった。

それから数年後、一九〇九年(明治四十二年)、仕事として模写を行なっていた小村雪岱(その頃は本名の小村泰助)が、依頼主であった久保博士と旅館で話をしていた際、久保氏の愛読書でもあった泉鏡花の小説の話になった。

すると、そこに泉鏡花の奥さんが訪れた。

色のあさぐろい、けれども痩せぎすの鏡花夫人は、いかにも江戸女といった肌合いの、さながら国貞えがくような、なんとも粋な風情のひとであった。

出典 : 星川清司『小村雪岱』

翌日、今度は泉鏡花本人が姿を見せた。これが小村雪岱と泉鏡花の出会いだった。

小村雪岱は、「小柄で、ちょっと勝気な美女が男装をしたようなおひと」と、そのときの鏡花の印象を綴っている。

憧れの作家との出会いに有頂天になった雪岱は、ほとんど記憶がなく、ただ鏡花の言った「怪談の怪は水の流れるようなもので二度とかえりません」という言葉だけが不思議と耳に残った。

怪談の怪は水の流れるようなもので二度とかえりません。

それから、家に遊びにおいでなさい、と泉鏡花は言った。

泉鏡花は、『白鷺』執筆中で、年齢は三十五歳、すでに文壇の大家だった。

どのタイミングで画号を授けられたのかは分からないが、「小村雪岱」と名付けられ、その後、まだ無名の若手画工に過ぎなかった雪岱は、喜び勇んで泉鏡花の家を訪れることになる。

小村雪岱が、初めて鏡花の家を訪れたときの様子は記録に残っていないが、のちに『日本橋』の装丁を頼まれ、この作品がきっかけとなって小村雪岱も一気に有名になる。

小村雪岱、装丁『日本橋(泉鏡花著)』 一九一四年(大正三年)

『鏡花選集』裏見返し 一九一五年(大正十五年)

タイポグラフィ(雪岱文字と呼ばれる) 画像 : 春陽堂書店

雪岱は、「総じて泉先生の作物を絵にすることは非常に困難で、あの幽玄な風格を表すのは全く至難の業です」としながらも、その後の鏡花作品の多くを担当し、二人の師弟関係は晩年まで続いた。

雑司ヶ谷霊園に眠る泉鏡花の墓石の設計も行い、また最後の鏡花作品への関わりとして、一九四一年(昭和十六年)泉鏡花原作『白鷺』の映画版の装置と考証に着手したが、完成を見ることなくこの世を去った。

泉鏡花が亡くなって一年ほど後のことだった。

晩年、小村雪岱は、「私は鏡花門人ですよ、絵筆で鏡花直伝の文章を書くんですよ」と語っていたと言う。

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