小村雪岱の芸術論

小村雪岱は、装丁や挿絵といった受注作品が主で、本人の思想を表現した一般的な「芸術作品」というものは少なく、それゆえ、没後日本の美術史で取り上げられることもほとんどなかった。

今で言えば、デザイナーの側面が強かったのかもしれない。

文章も、生前まとまった本は一冊も出版されることはなく、雪岱死後、随筆集が刊行されたのみだった。

最も新しく編纂された随筆集としては、2018年に出版された『小村雪岱随筆集』があり、新聞や雑誌などに寄稿された計74篇の随筆が収録されている。

雪岱が芸術論としてまとまった考えを述べている本はないものの、以下、『小村雪岱随筆集』から、個人的に気になった芸術に関する部分を抜粋したいと思う。

一つ目は、『「春琴抄」のセット 芸術における真実について』である。

これは1935年、サンデー毎日に掲載された文章で、谷崎潤一郎の小説『春琴抄』の映画のセットや風俗考証などを請け負った際に書かれたものだ。

ここで雪岱は、芸術における真実とは、言うまでもなく「真実らしさ」だと書いている。

芸術における真実とは、いふまでもなく真実らしさである。真実そのままの再現でなくて、真実の姿、真実のなかにかくれたその精神を端的に表現し、核心を描出することにある。

舞台装置やセットにおいても同じく、如何にして真実らしさを表現するかが重要な問題である。

真実を表現するためには、実物そのもの、たとへば柱の太さ、天井の高さ、椅子の幅、その一つ一つを実物自体と同様に作り上げるべきものではなく、ある点においては誇張し、ある点においては省略して、その嘘のなかに真実らしい姿を表現し、その気分をただよはすべきである。

小村雪岱『小村雪岱随筆集』

現実を、そのままの形で再現し、提示することで真実が表現できるのではなく、誇張や省略も巧みに交えながら、「真実らしさ」を表現する。

受け手が、ああ、確かにこれはそうだ、と思うような、真実らしい気分を漂わせる。

たとえば、映画の舞台背景や小道具、俳優の服装に到るまで細やかな考究と考証が必要であることは当然ながら、もし時代考証なども完璧にこなし、極めて忠実に再現したとしても、結果、映画監督が表現したかった「真実らしさ」が壊されるのであれば、「それは単なる時代考証の遊戯に堕してしまって、一種の道楽に終るのである」と述べている。

もう一つは、『挿絵のモデル − 個性なき女性を描いて』という、挿絵で女性画を描くことも多かった小村雪岱が、どんな女性を描きたいか、ということについて述べた随筆である。

戦前の写真雑誌『ホーム・ライフ(1935年)』(広告コピーは「美しい写真を主とした家庭雑誌」)に掲載された文章だ。

この文章で、まず雪岱は、描きたいと思う女性について、自分の内部にあるもの、自分の心象と似通ったものを持っている女性と出会ったときに、自分自身が好む女性画ができる、と述べている。

彼の心象にある具体的な女性としては、まぶたの裏に残って忘れることのできない、ある瞬間の母の顔を挙げる。

その母の顔に、憧れにも似た懐かしさを感じ、記憶のなかに浮かび上がる、このときの表情と似通ったものを持っている女性と出会うと、絵に描きたくなると言う。

また、実際の人物だけでなく、国貞の錦絵や仏像のなかにも、好きな雰囲気を持った表情があり、こうした心象と相通ずる何かをそのモデルが持っていると、探していたものと出会ったような喜びを感じ、雪岱は筆をとる。

雪岱にとって、懐かしさも伴ったこの心象こそが「美しい姿」であり、「美」だった。

小村雪岱の絵には「個性がない」という非難もあったようだが、雪岱はそもそも個性的に描くことに興味がなかった。

しかし、だからと言って風景画にしても、遠近法のような忠実な現実の再現ということもしない。これは先ほど触れた「真実らしさ」の表現を重んじるためだろう。

女性を描く場合も、写生というものは決してしなかったと言う。写生や写真など、現実の描写に興味が持てなかったようだ。

個性的に描こうとせず、現実の忠実な模倣もしない。とすれば何を大切にしたのか。

小村雪岱が、絵を描くにあたって興味を持ったのは、能面の表情だった。

ただ一つの表情が、演技者の演技によって、あるときは泣いているように、またあるときは笑っているように、と様々な顔を見せる。

個性のない表情のなかに、かすかな情感を現わす。これが雪岱の理想の境地だった。

私は個性のない表情のなかにかすかな情感を現したいのです。それも人間が笑ったり泣いたりするのではなく、仏様や人形が泣いたり笑ったりするかすかな趣(おもむき)を浮かび出させたいのです。

これが私の念願です。勿論一度だってその念願を達したことはありませんが、この念願を極めるのが私の仕事です。

小村雪岱『小村雪岱随筆集』

最後の一文は、同時代人でもあった詩人の宮沢賢治の次の言葉を思いださせる。「永久の未完成これ完成である」。

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