立原道造は、1914年に生まれ、1939年に24歳という若さで結核によって亡くなる夭折の詩人である。
詩人というだけでなく、東京帝国大の建築学科を卒業し、在学中には辰野賞を連続で受賞するなど建築家としても将来を期待された。
詩風は、柔らかな文体と叙情的な情景描写が特徴的で、読んでいると、そこはかとない悲しみが香りつつ、一つの牧歌的な絵画の世界に入り込むような優しさがあり、まるで水彩の建築物のような甘美さがある。
以下は、生前に自費刊行された詩集『暁と夕の詩』に収録されている『眠りのほとりに』という詩である。
『眠りのほとりに』
沈黙は 青い雲のやうに
やさしく 私を襲ひ……
私は 射とめられた小さい野獣のやうに
眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしにふたたび ささやく 失はれたしらべが
春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかへす
しかし それらはすでに私のものではない
あの日 手をたれて歩いたひとりぼつちの私の姿さへ私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまへの
そのあかりのそばで それらを溶かすのみであらう
夢のうちに 夢よりもたよりなく ───影に住み そして時間が私になくなるとき
追憶はふたたび 嘆息のやうに 沈黙よりもかすかな
言葉たちをうたはせるであらう立原道造『暁と夕の詩』
冒頭の眠りに入るまでの描写が、とても繊細で、映像として何かを象徴しているような表現をしている。
この「青い雲」とはなんだろう。若かりし頃に見た、流れる雲を意味しているのだろうか。
沈黙が、青い雲のように優しく襲い、射止められた小さい野獣のように、眠りのなかに身を倒す。そして、失われたしらべが、春の浮雲や小鳥や花や影を呼び返す。
遠く、失われてしまった、そして詩的な世界として再び立ち現れる様子を描いているのかもしれない。
それから、後半に向かって、眠りに倒れた先で再び立ち現れた、もはや「私のものではない」詩的な世界が、詩として生まれていく様を、「沈黙よりもかすかな言葉たちをうたはせるであらう」と表現したのだろうか。
様々な象徴が、夢のひとときのように描かれている。
この詩が収録された『暁と夕の詩』は、立原道造の第二詩集で、1937年12月に私家版で刊行。生前に出版された詩集は、第一詩集の『萱草に寄す』と、『暁と夕の詩』の二冊となっている。
また、立原道造は、建築家として有望な若者であり、職業としては、建築家を目指していた。構想した図面をもとに、2004年には、彼が夢見ていたヒアシンスハウスが建てられている。
立原道造の晩年の手紙には、ヒアシンスハウスに関する記述も見られる。
それから、「ヒアシンス・ハウス」という週末住宅をかんがえています。これは、浦和の市外に建てるつもりで土地などもう交渉していて、これはきっとこの秋あたりには出来ているでしょう。
五坪ばかりの独身者の住居です。これも冬のあいだしょっちゅうかんがえ、おそらく五十通りぐらいの案をつくってはすててしまいました。今ようやくひとつの案におちついています。
立原道造の手紙(1938年3月下旬頃)
上記の立原道造のスケッチをもとに、全国から寄付を募り、また多くの市民や企業、行政の協調によって、埼玉県の別所沼公園(彼は別所沼のほとりに建てることを夢見ていた)にヒアシンスハウスが建てられた。
細かい写真は、ヒアシンスハウスを見る|近代建築の楽しみに詳しく掲載されている。
詩人の設計する小屋、というのにふさわしい、情緒的な佇まいと、開放的な窓が印象的で、室内も、詩作に耽るのにもってこいのような落ち着きがある。
僕は、窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持っていなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだろう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンドウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなおいい。
そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいている。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボートには少年少女がのっている。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやわらかな鞠のような雲がながれている、その雲ははっきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでいる。
僕は室内にいて、栗の木でつくった凭れの高い椅子に座ってうつらうつらと睡っている。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たったひとつ。……
立原道造「鉛筆・ネクタイ・窓」1938年秋頃
生活のなかの一つの追想に寄り添ったような、詩人立原道造の建築、というものも見てみたかったな、と思う。