無常観と「もののあはれ」の美

無常観と「もののあはれ」の美

日本文化の特徴の一つとして、よく「もののあはれ」という言葉が使われる。これは平安時代の王朝文学を説明する際に用いられ、情緒的な日本の美意識を簡潔に述べた言葉である。

意味は、「折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁(参照 : Wikipedia「もののあはれ」)」。若者言葉で言う「エモい」という感覚に多少近い。


刻々と終わりゆくもの、移りゆくものの哀れに感じ入る、これは仏教的な世界観である「無常観」が下敷きにあることは疑いがないが、一体なぜこの宗教的な思想である無常観が、芸術、もっと言うと彩り豊かな「美」と結びつくのだろうか。

そこにはやはり、四季折々で様々な風景を見せる、日本という国の風土が深く関係しているように思う。

海外にももちろん四季はある。ただ、日本の場合、四つの季節がある、というだけにとどまらず、和歌に描かれるような、春夏秋冬、また花鳥風月が、絶妙な調和を保ちながら寂しげに移りゆく、その風景に囲まれながら育まれた美的彩りが、内心の悲しみと波長を合わせ、「ああ」というため息がこぼれるとともに歌になる。

もののあはれ、というときの「あはれ」は、「ああ」というため息が由来だという話を聞いたことがある。

日本人が仏教から受けた影響でもっとも大きなものの 一つに無常観がある。無常観とは、この世のものはすべて変化し消滅していくものだという教えである。元来、仏教ではそうした無常観こそが人間に苦しみをもたらすと説いていた。

しかし日本人は、この世は無常であるからこそ、一瞬一瞬が貴重であり、味わい深いのだと肯定的に理解した。

こうした考え方は、変化するもののうちに美を見いだそうとする発想となって日本のさまざまな芸術や芸能の底を流れる美意識を形成した。その代表的なものが「あはれ」という美意識である。「あはれ」とは、自然や人間の無常を知り、思わずでるため息に由来するといわれているが、そこにこそまた深い慰めがあるのだとされた。

出典 : NHK高校講座「日本人の美意識」


暮れてゆくものが寂しく、そして美しい、というのは、日常を眺めていると実感する。それは先日書いた芥川龍之介の遺書に残された「末期の目」とも通じるものだろう。

この「無常観がなぜ美的に表現されるのか」という疑問について、思想家の唐木順三も『詩と死』という随筆集のなかで触れている。

それは鎌倉時代の僧侶、一遍に関して論じた文章で、一遍は一切捨棄、一切放下を言い、実行してきたにもかかわらず、修辞だけは捨てきれないのはなぜか、と語る。

一遍が無常をいうとき、そこにはなにか浮々としたもの、嬉々としたものがあり、無常をいうことにおいて、格別に美文調に、雄弁になる傾向があるのはなぜか。そういう問題が私の頭の中にある。「苦」とか「無常」とかをいう場合に、格別に美文調になるということは、変なことである。奇妙といってもよい。

その変で奇妙なことが、ふりかえってみれば、日本ではむしろ当たり前のこととなっている。「はかなし」「はかなき」「はかなびたる」という王朝女流文芸に頻々と出てくる言葉も、横か裏から見れば、「はかなきものは美しきかな」というような、美的理念とさえ思われる場合が多い。それは「あはれ」の場合と同様に、日本人の心情の深いところに関連していることである。無常の場合も、古くから「無常美感」などといわれるように、無常をいうとき、日本人の心の琴線は、かなしくあやしき音をたてる。

我々のセンチメントは無常において、最もふさわしくみずからの在り所に在るという観を呈している。『平家物語』や『方丈記』がいわば国民文学として愛誦される所以も、その祇園精舎の鐘であったり、かつ消えかつ結ぶ水の泡だったりする。そういうことは既に常識にさえなっているのだが、これは随分奇妙なことといわねばならぬ。

出典 : 唐木順三『詩と死』

一遍は、無常を言いながら、その語り口が嬉々とし、雄弁で、美文調である。これは「奇妙」だと唐木順三は繰り返す。

しかし、無常観が美と結びつくことを日本人は当たり前だと思っているので、さして奇妙だとは感じない。「はかなきものは美しきかな」が根付いている。そのこと自体が実は奇妙だと指摘する。

しかも、一遍の場合は、文芸や物語の作者でもなく、一切を捨棄すべきという僧侶にもかかわらず、美文調を捨てられないことが、いっそう奇妙だ、と唐木順三は書く。

私自身は「はかなきものは美しきかな」と感じる所以として、日本の風物の特性というものの影響は切り離せないと思っている。

が、唐木順三は、これは日本人の特殊な性格というよりも、無を徹底すれば、案外そこには詩的な世界が広がっているのではないか、と言う。

それは単に一遍また日本人という特殊な存在の特殊な性格によるのではなく、一切捨棄、意識捨棄、捨棄の捨棄というところまで徹底すれば、即ち、無我、無心というところへ超出すれば、その世界は案外に、リズムをもった、美的な、調和ある、いわばポエジイの世界ではないかと、実はそういうことを思い思いしているのである。

出典 : 唐木順三『詩と死』

こう言われると確かにその通りのような気もするし、無常観と自然のリズムとが一致しなければ無常観の先に美的で調和のある詩的な世界が広がっている、とはならないような気もする。

少なくとも仏陀の言葉に「美」はなかったように思う。

いずれにせよ、日本で一般的な感受性として(意識無意識問わず)浸透している「もののあはれ」は文化的に重要な源泉となっているが、その一方で戦争(「潰えること」)を儚く美しいものとして捉えるような感性とも分かち難く、根深い不治の病の側面もある。

戦争を青春時代に経験し、戦後の詩人として長年活躍した茨木のり子は、こうした和歌のような古典的感性を軟弱なものとして嫌い、あの『自分の感受性くらい』や『倚りかからず』といった「儚く散ることのない」逞しい詩を書くに至った。

逆に戦前の詩人である中原中也は、「物のあはれがなかったら、この世はどうにも仕方のない焦慮と、他にあればほくそえむことだけくらいだ」と綴っている。

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