尾形亀之助『花』 / 詩

尾形亀之助という日本の戦前の詩人がいる。

1900年に宮城県で生まれ、幼い頃から持病の喘息を抱えるなど決して体は頑強ではなく、1942年に42歳という若さで死去している。

直接の死因は分かっていない(一説には「餓死自殺」だったと言われる)が、全身衰弱という最期だった。

尾形亀之助の作風としては、短い詩も多く、叙情的で、どこか夢の一場面のような世界が、文章の絵画のように描かれ、ときどき日記のような詩もある。

『花』

街からの帰りに
花屋の店で私は花を買つてゐた

花屋は美しかつた

私は原の端を通つて手に赤い花を持つて家へ帰つた

『小さな庭』

もはや夕暮れ近い頃である
一日中雨が降つてゐた

泣いてゐる松の木であつた

『かなしめる五月』

たんぽぽの夢に見とれてゐる

兵隊がラツパを吹いて通つた
兵隊もラツパもたんぽぽの花になつた


床に顔をふせて眼をつむれば
いたづらに体が大きい

尾形亀之助『色ガラスの街』

短い詩、ということに関しては尾形亀之助自身も自覚していたものの、必ずしも、そのことに納得はしていなかったようだ。

彼は、「もう少し長い詩が書きたい。詩の中に余裕をもちたい」と綴っている。

私の詩は短い。しかし短いのが自慢なのではない。自分としてはもう少し長い詩が書きたい。そして、もう少し私は詩の中に余裕をもちたい。「笑ひ」といふやうなものをゆつくり詩に書いてみたい。

私の今の詩は詩集として一つに纒めて読んでもらうのが一番よいのだが、さう思ふやうに詩集は出せない。

私は又、思想にも詩作にも未だ固つたものを持つてゐない。このことはどんな風に今の私を言ひ著せばいゝのか私にはわからない。「私のやうな詩はどうかしら」と識者に見てもらつてゐる――と言つてよいと思ふ。

唯、私はよい詩を作るやうになりたい。ぼんやりでいゝから一つの心境をつかみたい。(暗がりを手さぐりで歩いてゐることを思ふとさみしい)

私は詩作の生活に入つて七年になる。その六年間余の間には絵を描いてゐた頃もあつたが、詩は十編と発表してはゐないと思ふ。

その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。

そして去年の五月頃から、詩の数から言へば秋になつてから今年の一月までに八十余編の詩作をして六十編余の詩を発表した。

識者はこの私の詩を見てゐて呉れるものと自分は思つてゐる。

だが、私はこれらの評言を待つてゐるよりも、もつとよい詩を書かなければならないと思つてゐる。一生懸命になつてゐなければ、ますます淋しくなるばかりだ。

尾形亀之助『私と詩』

以下、尾形亀之助の生涯を、彼の詩集に載っていた年譜を参考に記録しておくことにする。

尾形亀之助

尾形亀之助は、1900年(明治33年)12月11日、宮城県柴田郡大河原町に、父代之助、母ひさの長男として生を受ける。当時、尾形家は、運送会社や病院などを経営する莫大な資産家で、尾形亀之助も、家の事業が傾くまで、この資産と実家からの仕送りによって、その人生の多くを暮らした。

亀之助が喘息の兆候を示すのは、4歳の頃のことで、この喘息が一生の持病となる。8歳のときに大河原尋常小学校に入学し、9歳の頃に一家で仙台市に転居、宮城県立師範学校附属小学校に入学する。

11歳頃から持病の喘息が悪化すると、学校を欠席がちになり、療養も兼ねて鎌倉の祖母宅に預けられる。

長期欠席のため、進級できず、鎌倉尋常小学校に転入。14歳で逗子開成中学校に入学するも、16歳で退学する。

明治学院中学部に転入し、寮生活を送る。その後、仙台に戻り、東北学院普通部(中学校)に転入と、10代の頃は転々とする。

この頃、石川啄木の歌集や、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーなどの作品に触れ、短歌、詩、絵などを学内の同人誌に発表し始める。学業を放棄し、友人らと同人誌を創刊するなど、作品発表に勤しみ、学校を退学する。

亀之助は、美術学校を目指すと言い、ときおり上京。21歳で、森タケと結婚。生活は仕送りで賄いながら、本格的に絵を描くようになる。

24歳のときには、長女も誕生する。

絵描きを目指して活動するも、25歳くらいの頃から絵を諦め、詩作に専念するようになる。その年の11月、第一詩集『色ガラスの街』を刊行。26歳のとき、長男が誕生。その後も、随筆や小品を執筆する。

28歳の頃、妻タケと離婚し、半年後、女流詩人である芳本優と結婚する。

29歳の頃に第二詩集『雨になる朝』を刊行。30歳の春頃から、「餓死自殺」という言葉を口にするようになる。夏、第三詩集『障子のある家』を刊行。

32歳で東京を引き払い、仙台に戻る。五月、次男が誕生。33歳のときには、三男が生まれ、宮沢賢治追悼会に草野心平らと出席。34歳で、次女が生まれる。

さらに36歳で、四男誕生。その頃、実家の財政が悪化し、仙台市役所の税務課で働き始める。

41歳のとき、妻の優が三度目の家出。また亀之助自身、持病の喘息の他、様々な病に悩まされ、家の財政もますます逼迫する。

1942年、42歳のときに持ち家を売却し、一人下宿屋の一室に移る。

病状は悪化し、食事もろくに取れなくなる。12月2日、最期は全身衰弱で誰にも看取られることなく亡くなる(参照 : 尾形亀之助『尾形亀之助詩集(現代詩文庫)』)。

死因は、彼が日頃から口にしていたように、餓死自殺だったのではないか、という説もあり、遺書として書かれたと思われる文章として、子供たちや親に宛てた『障子のある家』の後記がある。

現代詩文庫版の詩集に記載されている亀之助の最期に関する記述を読むと、とても寂しく孤独なものだったことが分かる。

十二月一日、道路にうずくまっている亀之助を市役所の同僚が見つけ、下宿に運んだ。

子供達が見舞いにゆくと、布団に半身を起しじっとしていた。そして「廊下に誰かいるだろう」と言った。また喘息の発作だろうと誰も余り気にかけなかった。

翌二日、優(妻)が父とともに見舞うと、昨夜、子供達が見た同じ姿勢で、自分の胸を抱くようにして布団の上に半身を起していた。

部屋は片付けるものはなにひとつなく、洋服はハンガーにかかり、紙クズひとつ落ちていなかった。

しかし、押入れをあけると、真っ白な瀬戸の便器と洗面器に尿が淀んでいた。しかも容器の外には一滴の零れもなかった。亀之助の体は硬直したように自由にならなかった。

新しい家に着いたのは夕刻近かった。苦痛を訴える亀之助に、父は医者をよびにゆき、優は子供たちのため夕食の支度に家へ帰った。

その僅かの間、亀之助は喘息と長年の無類な生活からくる全身衰弱のため、だれにもみとられず息をひきとった(尾形優、草野心平、秋元潔)。

尾形亀之助『尾形亀之助詩集(現代詩文庫)』

僕が彼の詩集で読んだのは、古い現代詩文庫のシリーズだったが、夏葉社という出版社から刊行されている『美しい街』という詩集の装丁が美しかった。

尾形亀之助『美しい街』

この詩人に興味を持ったのも、『美しい街』の装丁の写真を見たことがきっかけだった。

尾形亀之助の作品で、個人的に好きなものに、『花』という仮題の短い一編の詩がある。

『花』

電灯が花になる空想は
一生私から消えないだらう

20代後半の頃の作品なので、まだ若い頃の詩と言える。

電灯が花になる空想、というものを、一人部屋に寝転がって電灯を見上げながら、思い描いていたのだろうか。

本人は、もう少し長い詩を、というようなことを書いていたが、生きていることに疲れながらふとよぎる想念のような、心象風景のような彼の短い詩が、自分にとっては心地よかった。

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