谷川俊太郎「詩よ」

大規模な書店の棚でも、街の小さな本屋さんでも、詩集は片隅が似合う。書店の真ん中でたくさん積まれて、話題の新刊が登場といった触れ込みに囲まれた、きらびやかな空間よりも、片隅にあったほうがいいし、片隅で出会うということそのものが、詩の大事な要素の気さえする。

そう思うのは、詩が本質的には寂しいもので、また寂しさに触れるものだからなのかもしれない。光の真ん中でハイタッチをするような類の出会いではなく、そっと片隅で頷き合うようなものだと僕は思っている。

谷川俊太郎さんの『詩に就いて』という詩集のなかに、「詩よ」という詩がある。それは詩の孤独さやありかたを歌ったような詩で、詩の最後、詩人は「詩」に向かってこんな風に呼びかける。

活字に閉じこめられた詩よ
おまえはただいるだけでいいのだ
何の役にも立たずにそこにいるだけでいい
いつか誰かが見つけてくれるまで

谷川俊太郎「詩よ」より(『詩に就いて』)

僕はこの詩への眼差しが好きで、詩が詩であることをなによりも肯定している言葉のように思う。ただいるだけで、じゅうぶん尊い。誰かが見つけてくれるまで、静かにそこで待っていたらいい。

むしろ、「待っている」ということが、詩を詩たらしめているのかもしれない。たとえどれだけ寂しく、孤独でも、役に立とうとして動き出そうとしないこと。いつか誰かが見つけてくれるまでそこにいる、ということ。片隅で出会うということが、もっとも詩的な逢瀬なのかもしれない。

きっとそもそも、詩そのものが役に立つ必要などないのだと思う。それぞれの心のなかにある詩情が、ただそこにあるだけでいいように。詩は、ただいるだけでいい。どれだけ疲弊し、混沌としたなかでも、詩のある世界がここにある、というだけで守られているものがある。