石原吉郎の『位置』
詩人の石原吉郎は、一九一五年(大正四年)に静岡県で生まれ、一九七七年(昭和五十二年)に心不全で亡くなる。
戦後のシベリア抑留の経験や記憶が根幹にある詩人として知られる石原吉郎の作品のなかに、『位置』という題の詩がある。
『位置』
しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
この詩を読むより前に、僕は石原吉郎という名前を、ある老作家の講演で聴いた。
その講演のなかで、石原吉郎の「私は告発しない、ただ自分の〈位置〉に立つ」という一文を知った。
これは『望郷と海』という随筆集から引用された一節で、二十代前半だった僕には、孤独と覚悟を深く実感させられる、とても「格好いい」言葉に映った。
誰かを告発しようとするのではなく、ただ自分の〈位置〉に立つこと。その〈位置〉に存在し続けること。
その後、調べているうちに、同じ詩人の『位置』という詩を見つけた。
石原吉郎にとって「位置」とはどういったものなのだろうか。ある散文では、「位置」に関し、彼は次のように書いている。
私が『位置』ということばについて考えるのは、自分自身がそこにいるよりほかどうしようもない位置であって、多分それは私自身、軍隊とシベリアに拘禁されつづけて来た体験がその背後にあると思います。
つまり自分はそこにいるよりほか、どうしようもなかったという、その位置です。
出典 : 石原吉郎「断念と詩」
この文章を読むかぎり、石原吉郎の考える「位置」というのは、必ずしも自分で選択した場所ということではないようだ。
確かに、自分がこの時代、この世界に生まれ、今の「位置」を占めているのは、決して選んできたものではない。
生まれ落ちたこと自体はもちろん、物心がつき、意思を持って選択してきたように見えることも、一概に「選んできた」とは言えないような複雑さがある。
そして、どこまでいっても、自分は今の「位置」に立つことしかできない。
だからこそ、生きているあいだにできることというのは、その位置を位置として引き受け、肯定する(それは悲劇でも絶望でもない)以外にない。
やはり、格好いい言葉だと思う。