誰かがふとこぼして去っていったような、「咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」という言葉。
これは、詩人の高橋元吉の作品、『なにもそうかたを……』(実際には題名はない)という詩の一節である。
1933年に書かれた詩で、分かりやすく簡素な言葉ながら、ものごとの捉え方を優しく一変させてくれる。
高橋元吉は、1893年(明治26年)に生まれ、1965年(昭和40年)に亡くなる、大正から昭和にかけての詩人で、書店を営んでいた。
以下は、この詩の全文となる。
なにもそうかたをつけたがらなくても
いいのではないかなにか得体の知れないものがあり
なんということなしに
ひとりでにそうなってしまう
というのでいいのではないか咲いたら花だった 吹いたら風だった
それでいいではないか
肩の力が抜けるようで、自然との向き合い方が濃縮されているように思う。
また、自然に対することだけでなく、ある種の運命との向き合い方においても言えるのかもしれない。
この世のなかのことは、起源や原因を求めすぎることで、却って捉えることを難しくさせる側面もある。
咲いたら花だった、吹いたら風だった、それでいいではないかと、こういった世界の見方も、ときには必要なのかもしれない。
交友があった彫刻家の高田博厚は、高橋元吉の人間性に関して、出世欲がなく、反逆児や拗ね者でもない、と書いている。
書店の店主をつとめながら、細々と詩を書き続けた詩人。この作品から漂ってくるような、執着し過ぎずに、自然体の人柄だったのだろうか。
また、高田は、彼の詩について、「自分が真に孤独の時に、語りかけてくるものがあるだろう」と綴っている。
真に孤独になったときに語りかけてくれるというのは、よい詩の大事な特徴の一つだと思う。
ちなみに、僕が好きな高橋元吉の詩で、この作品以外にも二つほど紹介しようと思う。
また一つ星が落ちた
落ちてみると 今更ながら
美しい星だったとおもうたえずあらしの雲のあいだに見え隠れしていた
雲から出るたびに光が冴えてくるようであった
しづかな光だった
内からくる光であった
内に燃えているものがあった星は落ちた
その星を知るすべての人々の胸の深みに
ふたたび消えることなくそこにかがやきはじめた
一層うつくしい光を帯びて
なん十年という間
この世の花をみてきた
人が見ても見なくても
咲きこぼれるとひらいて
また消えてゆく花というものいかにものがなしげに
過ぎてゆくものであるか
時というものは
どちらも題名はなく、前者は1940年、後者は1964年に書かれた詩で、命の悲しみや、失われるゆえの美しさが描かれている。