高橋元吉は明治に生まれ、昭和に亡くなった群馬県出身の詩人で、書店を営んでいた。
そんな元吉の詩のなかで、とても印象的な一節に、「咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」がある。
去り際に誰かがふとこぼしていったような言葉で、『なにもそうかたを……』(実際には題名はない)という詩にある。
この詩は、分かりやすく簡素ながら、ものごとの捉え方を柔らかく一変させてくれる。
なにもそうかたをつけたがらなくても
いいのではないかなにか得体の知れないものがあり
なんということなしに
ひとりでにそうなってしまう
というのでいいのではないか咲いたら花だった 吹いたら風だった
それでいいではないか
肩の力が抜けるような優しい真理の一端で、自然との向き合い方の本質が濃縮されているように思う。そして、同じことは、自然だけでなくある種の運命との向き合い方においても言えるのかもしれない。
この世のことは、起源や原因を求めすぎることで、却って捉えることを難しくさせる側面もある。単純な原因と結果だけでなく、実際には様々な要因が、縦にも横にも奥にも複雑に絡まり合って、今この状況にある。そして、この今もまた、未来のある一時点の要因の一つとなる。
追いかけすぎると、見えなくなる。動けなくなる。だからこそ、ときには、「咲いたら花だった、吹いたら風だった、それでいいではないか」と、散歩でもしながら、そんな風に世界を眺めてみることも必要なのかもしれない。
交友があった彫刻家の高田博厚は、高橋元吉の人間性について、出世欲がなく、反逆児や拗ね者でもない、と書いている。書店の店主をしながら、細々と詩を書き続けた詩人。この作品から漂ってくるような、執着し過ぎずに、自然体の人柄だったのだろうか。
また、高田は、彼の詩について、「自分が真に孤独の時に、語りかけてくるものがあるだろう」と記している。真に孤独になったときに語りかけてくれるというのは、よい詩の大事な特徴の一つだろうと思う。
最後に、僕が好きな元吉の詩で、この作品以外にも二つほど紹介したいと思う。
また一つ星が落ちた
落ちてみると 今更ながら
美しい星だったとおもうたえずあらしの雲のあいだに見え隠れしていた
雲から出るたびに光が冴えてくるようであった
しずかな光だった
内からくる光であった
内に燃えているものがあった星は落ちた
その星を知るすべての人々の胸の深みに
ふたたび消えることなくそこにかがやきはじめた
一層うつくしい光を帯びて
なん十年という間
この世の花をみてきた
人が見ても見なくても
咲きこぼれるとひらいて
また消えてゆく花というものいかにものがなしげに
過ぎてゆくものであるか
時というものは
どちらも題名はなく、前者は1940年、後者は1964年に書かれた詩で、命の悲しみや失われるゆえの美しさが、星や花という象徴的な自然物をもとに描かれている。