神は細部に宿る、その意味や由来は

神は細部に宿る

有名な格言に、「神は細部に宿る」という言葉がある。英語では、God is in the details.と書く。

この格言は、芸術の世界やデザインの世界の他に、様々な分野で引用される。しかし、実は一体誰が言ったのか、語源や由来は定かではない。

図書館のレファレンスデータには、この「神は細部に宿る」の由来を念入りに調べた結果が紹介されている。

レファレンスデータによれば、『日本国語大辞典』の初版及び二版では、「神」と「細部」と「宿る」の用例や索引に掲載はなく、また、国語、格言、慣用句、引用句、諺等の辞書辞典を調べても掲載はないと言う。

その他、詳細なデータ検索からたどり着いた資料は、以下の三点である。

【資料一】丹生谷貴志著『三島由紀夫とフーコー 〈不在〉の思考』青土社2004.12(当該論文はp55-65)

著者によれば、ミース・ファン・デル・ローエ → ヴァールブルク → エックハルトという風に辿っていくことができるものの、はっきりした起源は不明とのこと。

【資料二】「語彙と表現のフォーラム(57)今月の焦点 神は細部に宿る」 堀内 克明 『英語教育』 54巻10号(2005.12) p69-71

ドイツ出身の建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉として、ニューヨークタイムスのローエ追悼記事にこの言葉が載っている、とあるものの、この記事以前にも、ヴァールブルク、フローベル、アインシュタイン、ル・コルビジェ、ニーチェ等が、「神は細部に宿る」という言葉を使用していることから、起源は不明。

【資料三】「ヴァールブルクの言葉『親愛なる神は細部に宿る』をめぐって」 加藤 哲弘 『人文論究』 53巻1号(2003.5) p15-28

ドイツの美術史家アビ・ヴァールブルグが行った、1925/26年ハンブルク大学冬学期講義録メモのなかに、『神は細部に宿る「Der liebe Gott steckt im Detail」』という記述があり、メモの図版も残っている。

ヴァールブルグが好んだ表現だったそうだが、さらに起源を遡ると、フランスの小説家フローベルか、イギリスの社会思想家ジョン・ラスキンの言葉ではないか、という説もある。

いずれにせよ、「神は細部に宿る」という言葉を最初に誰が言ったのか、その由来や起源に関して明確に分かっているわけではないようだ。

意味や解釈を考える

謎が残るこの「神は細部に宿る」という一節だが、語句の意味は、「細かい部分までこだわり抜くことで、全体としての完成度が高まる」と、一般的に解釈される。

全体や表面的な見た目ばかりを気にし、細かい部分を疎かにすれば、結果として作品全体の完成度も落ちる。

だからこそ、本物は、細部に至るまで念入りにこだわりが貫かれている、ということを表現した言葉である。

この格言を、もうちょっと深掘りし、受け手の側から言い換えてみると、細かなほころびによってその作品が神ではないことが見抜かれる、とも言えるだろう。

絵にしても、写真にしても、映画にしても、作品を受け取っている側は、表現された「夢の世界」にいる。

夢の世界とは、完全な神の世界でもある。しかし、もしその世界にほころびがあれば、すっと夢から覚める。世界が神ではなかった、と気づく。それゆえに、細部まで徹底する必要がある。

この視点を、「余白」という点も踏まえて考えてみたいと思う。

ここで言う「神」というのは、余白という観点も交えて言えば、「作品」の側だけで完結するものではない。

もし作品の側で完全を提示してしまえば、受け手が必要なくなる。

明治期の思想家である岡倉天心は、完成品ではなく、未完成品ゆえに、受け手の完成に向かう想像力によって完成に至る、と指摘している。

また、デザイナーの原研哉氏も、完成へと誘発する空白の重要性に触れている。

余白という観点から言えば、「神」とは、作品側のみに名付けられた固定的なものではなく、作品と、作品を享受する受け手との出会いの刹那に立ち現れる「空間」そのものを指すと言える。

不完全というのは、手抜きでいい、というわけではもちろんなく、だからと言って、力んで細部を詰め過ぎても、出会いの空間という「神」は壊れる。

細部、というのは、思った以上に儚く、揺れやすく、厄介なものなのだ。

簡素の哲学 ─ シンプルと余白の違い ─

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