詩人の高橋陸郎さんが、谷川俊太郎さんとの対談のなかで、折口信夫の「雪をつかむ」という感覚の話を紹介していた。
日本の詩的な情緒というのは、雪をつかんだときに、その感触は残りながらも、しばらくしてひらくと、手のひらには何もない。そこにあった、という記憶だけがふっと残り、他にはなにもない、というようなものだと言う。
僕は、わが国の近現代の詩の批評家として特段にすごいなと思っているのは、実は折口信夫なんです。あの人は、日本語の詩の最も良質のものは、それを読んだ後に「そこに何かあった」というような記憶だけがフッとあり、他には何も残らないものだ、と言っています。雪を握ったら溶けて全部なくなった、冷たかったという記憶だけが残る───そういうのが最高の詩だと言うんですね。
高橋睦郎・谷川俊太郎「対談 雪のように溶ける詩を目指して」
手をひらけば、つかんだ感触を残しつつもはっきりとしたものはなく、一度きりのものとしてすっと消えてゆく。それゆえの美しさがある。
もともとこの「雪をつかむ」という話を知ったのは、デザイナーの原研哉さんのエッセイだった。原さんが、高橋陸郎さんが語っていたこととして俳句の「切れ」の感受性を踏まえて書いていた。
折口信夫はこれを「雪をつかむ」感覚にたとえているという。雪を確かにつかんだという。感覚はありありと手に残っているが、手のひらを開いてみると、冷たい物質の塊の感触を残しながらも、そこにはもう何もない。感慨もまた流れる水のように、ひとときののちには跡形もなくなる。これが表現というものの極意であると。
意味というものにこだわりすぎないこと。本来なら、作品の意味や意図である雪そのものをしっかりと握り、残しておく。雪の魂こそが、表現の本質である、と考えるかもしれない。でも、そうではなく、その雪の塊自体はなくなってしまう、そのなくなってしまうこと、そして、そのあとに残るかすかな余韻こそが、表現における極意だというわけである。
これは表現だけでなく、人間そのものでも、どこかそうありたいと願っている自分もいる。
あんな人がいたな、いたような、いなかったような、何かあったような記憶だけは懐かしさの感触とともにほんのりと残っている。そして、そのかすかな記憶もやがては消えてゆく。そんな風に考えているときに、ふと、詩人の茨木のり子さんの『(存在)』という詩が思い出される。
(存在)
あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけでわたしも ほんとうは
存在していないのかもしれない
何か在りげに
息などしてはいるけれどもただ透明な気と気が
触れあっただけのような
それはそれでよかったような
いきものはすべてそうして消え失せてゆくような茨木のり子『歳月』
これは、茨木さんが49歳のときに夫と死別し、その後、亡き夫について書いてきたいくつもの詩の一編で、これらの詩は、生前は、恥ずかしいからと誰にも見せずに、茨木さんの死後に、詩集『歳月』として出版された。
何か空気のようなものが、触れ合って、そして消えてゆく。永遠ということで言えば、そこには永遠に残り続けるということはないのかもしれない。しかし、確かにその瞬間が永遠であったという、不確かさゆえの確かさのような感覚が、生きていることであり、出会いでもある。詩的な情緒における、雪をつかんだときのその手のひらの余韻というのも、そんなことと近いのかもしれない。
繋がったという幻想でいい、夢のような、そのときの儚い記憶が、お守りのように感じられる。それは確かに自分にとっての詩の美しさと言えるものでもある。
この「雪をつかむ」という詩情の話は、折口信夫の「俳句と近代詩」という評論のなかで、古来の短歌における詩的な情緒について語っている一節にある。
たとえば雪───雪が降っている。それを手に握って、きゅっと握りしめると、水になって手の股から消えてしまう。それが短歌の詩らしい点だったのです。(中略)古風の短歌は握りしめてしまえばみな消えてしまった。何も残らない。
折口信夫『折口信夫全集 評論篇 1
降っている雪の美しさや悲しみというのは、川瀬巴水の絵や中原中也の詩でも描かれているが、その雪を握りしめた後の何もない様というのは、少し新鮮な映像でもある。