宮崎駿「子どもにむかって絶望を説くな」

宮崎駿『千と千尋の神隠し』

たとえこの世界に対して絶望的な見方を持っていたとしても、子どもに届ける作品である以上は、表現するときに希望が描かれていないといけない。

その思いが伝わってくる、ジブリの宮崎駿監督の言葉に、「子どもにむかって絶望を説くな」というものがある。

これは、宮崎監督が様々な児童文学に関して推薦する文章とインタビューを纏めた『本へのとびら ── 岩波少年文庫を語る』に載っている一節である。

要するに児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。『小公子』を書いたバーネット、『若草物語』を書いたオルコット、『ハンス・ブリンカー』のドッジも、『赤い鳥』を始めた鈴木三重吉も、彼にすすめられて「杜子春」を書いた芥川龍之介も源のところは同じです。

「子どもにむかって絶望を説くな」ということなんです。子どもの問題になったときに、僕らはそうならざるを得ません。ふだんどんなにニヒリズムとデカダンにあふれたことを口走っていても、目の前の子どもの存在を見たときに、「この子たちが生まれてきたのを無駄だと言いたくない」という気持ちが強く働くんです。

宮崎駿『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』

普段どれだけニヒリズムであったとしても、子どもを前にしたら、こんな世界に生まれて無駄だったとは言いたくないという気持ちが強く働く、と宮崎監督は言う。

宮崎監督の世界認識から言えば、絶望的な心境になることも少なくないかもしれない。

それでも、宮崎監督の仕事場の隣にはジブリのスタッフのための保育園があり、この園の子どもたちの姿を見ると、「正気にしてくれる」と言う。

この「子どもに向かって絶望を説くな」という軸は、これまで繰り返し宮崎監督が語っていることでもある。

ある対談のなかでも、「もちろん自分の中にマイナスの部分や冷たい絶望的なことや悲観的なものはたくさん持っていますが、子どもたちが見る映画にそれを盛り込もうとはあまり思っていません」と話す。

また、2005年のベネチア国際映画祭の際には、映画を通して送りたいメッセージは何か、という記者の問いに対し、「おもしろいものは、この世界にいっぱいある。まだ出会ってないかもしれないけれど、きれいなものや、いいこともいっぱいあるということを子どもたちに伝えたい、それだけです」と話している。

そのことを映画のなかに描こうという話ではなく、映画の向こうにいっぱいあるんだ、ということを届けたい、と言い添える。

そして、どれだけ先の見えない世界だと思っていても、この時代に生まれてくる子どもたちに、「生まれてきてよかったんだよ」と言える映画を作るしかない、それができたらいいなと思う、と語る。

こんなに先の見えない時代に生まれてくる子供達に、「えらい時に生まれてきちゃったね」と言いたくなるけど、やっぱり「よく生まれてきてくれた」という気持ちのほうが強いんですよね。「おめでとう」とか「いらっしゃい」とか、そういう気持ちが正直な気持ちなんです。

そのことと、このたいへんな現実の世界とのあいだに、どうやって橋を架けるのか。簡単には橋は架からないですよね。それでもやっぱり子供達に「生まれてきてよかったんだよ」と言える映画を作るしかない、それができたらいいなと思うわけなんです。

そうするとますます映画の方程式とか文体からはずれていくんですよね。困ったことです(笑)

宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』

表現の世界には、絶望に浸かり、向き合い、その奥で表現しようとする芸術もある。悲しみのまま終わる美しさもある。

それはそれの良さがあり、必要なものだと思う。

一方で、宮崎監督は、子どもに向かって届ける作品ゆえに、常に世界に希望を灯そうとする。「生まれてきてよかったんだよ」という祝福を届けようとする。

子どもに向かって絶望は説かない。

個に閉じこもって世界を眺めたら、悲観的になっていくこともあるかもしれない。全てが虚しく、無意味に思えるかもしれない。

それでも、この子たちに何を残せるか、届けたいか、と思えば、たとえ自分のなかに暗い絶望を抱えていたとしても、そのまま提示しようとは思わない。

光のなかで生まれる光ではなく、暗闇のなかでかろうじて触れようとする光、というものの持っている優しさもあるのだと思う。

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