いつだったか、道路の向こう側を中学生が修学旅行かなにかでぞろぞろと並んで歩いているのを見たとき、それまでの僕だったら、“あの頃の自分”として過去と重ね合わせた感覚だったのに、その瞬間、その光景を、未来として捉えているのを感じた。まるで季節の変わり目の風の変化のような、小さな、でも確かな変化だった。その頃、友人の家族に子どもが生まれるということが続いていたこともあったのかもしれない。
大人になる、ということの色々な定義があるとして(僕はきっとそのいくつもの定義において大人になれていないと思う)、その一つには、自分の死を見据えることと、そのことを通して、残されていく世界や、これからの未来に、祈りのようなものが芽生えることも、大きいのでないかと思う。僕のなかにもだんだんと、そんなことが芽生えていった頃にあった、象徴的な出来事だった。
ジブリの宮崎駿監督が、以前、児童文学というのは、「どうにもならない、人間とはこういう存在だ」という厳格な文学とは異なり、子どもに向けて、「生まれてきてよかったんだよ。生きていいんだよ」ということを伝えるものだと語っていた。それは一言で言えば、「子どもに向かって絶望を説くな」ということだ、と。たとえ、この世界に対して絶望的な見方を持っていたとしても、子どもに届ける作品である以上、希望や祝福が描かれていないといけない。別の対談でも、「自分の中にマイナスの部分や冷たい絶望的なことや悲観的なものはたくさん持っていますが、子どもたちが見る映画にそれを盛り込もうとはあまり思っていません」と言っていた。それは、宮崎監督にとっての矜持であり、祈りでもあるように思えた。
表現の世界には、絶望に浸かり、向き合い、その奥で表現しようとする芸術もある。悲しみのままに終わる美しさもある。それはそれの良さがあり、僕も、そういった表現や作者の存在に肯定されてきた。一方で、子どもたちに目を向けたとき、常に世界に希望を灯そうとする、「生まれてきてよかったんだよ」という祝福を届けようとする。その想いも、この世界にとって不可欠なものだと思う。
個に閉じこもって世界を眺めたら、悲観的になっていくこともあるかもしれない。全てが虚しく、無意味に思えるかもしれない。それでも、この子たちに何を残せるか、届けたいか、という視点を持てば、たとえ自分のなかに暗い絶望を抱えていたとしても、そのまま提示しようとは思わない。光のなかで生まれる光ではなく、暗闇のなかでかろうじて触れようとする光、というものの持っている優しさもある。