神坂雪佳『うた絵』/ 絵

神坂雪佳は、1866年に京都で生まれ、明治から昭和初期にかけて活躍した図案家・日本画家で、尾形光琳ら琳派の流れを汲む画家として「近代琳派」と称される。

図案家というのは、工芸品に施す図柄を考え出し、絵を描くデザイナーのことで、琳派に流れる日本の伝統的な美意識と、近代的な感性やデザイン性が融合し、神坂雪佳の作風に繋がっている。

雪佳の絵を見ていると、美しいな、と思うと同時に、現代にも通じる格好よさも感じられる。

それは幕末の京都に生まれ、古来の美意識に傾倒しながらも、明治から大正、昭和という近代化していく空気のなかで生きることによって育まれたものなのかもしれない。

また、神坂雪佳の作品には、和歌を題材に、絵と文字が混じり合っている『うた絵』という作品集がある。

神坂雪佳『うた絵』 1934年

この『うた絵』は、平安時代の歌集である『古今和歌集』の和歌から25首を取り上げ、その歌の意味を絵として表現している。

単に歌意を絵にしているだけではなく、その和歌を記した文字自体が、絵のようにしても表されている。

この梅の花と月の絵の和歌は、凡河内躬恒おうしこうちのみつねの「月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける」という古今和歌集の春歌の一首である。

現代語訳すれば、「月夜では、梅の花はよく見えないので、その香りを訪ね求めることによって梅の花だと知るべきだったのだ」といった意味になる。

詞書には、「月夜に梅の花を折りてと人の言ひければ、折るとてよめる」とあり、月夜の晩に、梅の花を一枝折って欲しいと頼まれ、折って取った際に詠んだ歌である。

月夜において梅が見えないというのは、夜の闇で花が見えないということではなく、月明かりの白さに、梅の白い花が紛れ、花の姿がはっきりとは見えないということで、誇張混じりに歌うことによって詩的なイメージを描いている。

そして、それゆえに、ありかは香りで知るべきこと、と梅の芳香の素晴らしさを詠みあげた歌なのだろう。

神坂雪佳の『うた絵』のなかでは、大きく梅の花が描かれている。月に関しては、写実的な絵ではなく、「月」という文字が、まるで月のようにして描かれている。

また、梅の枝にも文字が隠されるなど、絵と文字が一体化している。

こんな風に、文字を絵のようにして表現する手法は、「葦手絵あしでえ」と呼ばれ、起源は平安時代まで遡る。

装飾文様の一種で、文字を絵画的に変形し、葦・水鳥・岩などになぞらえて書いたもの。平安時代に始まり、中世を通じて行われた。

葦手|日本語大辞典

文字で絵を描く文字絵として、「へのへのもへじ」が有名だが、日本の文字絵の始まりとして、この葦手絵があるようだ。

日本における文字絵の始まりと言われているのが、「葦手絵」です(「葦手」は芦手、蘆手などとも表記されます)。

日本では、昔から漢字、カタカナ、ひらがなの三種の文字が使われてきました。カタカナは漢字を簡略化して作られ、ひらがなは、漢字の草書体が長い年月の間に更に書き崩されることによってでき上がりました。

ひらがなの最初の使い手であった平安貴族には、折に触れて和歌を詠み、贈り合う風習があり、和歌をいかに魅力的に見せるかが大切な要素になりました。書き方に様々な工夫がこらされていく中で、和歌をいくつかの語句に区切って書く「分かち書き」や、紙面のあちこちに散らして書く「散らし書き」、いくつかの仮名を延々と切れ目なく続けて書く「連綿体」など、ひらがな独特の書き方が現れてきます。

長短さまざまな長さの語句を散らし書くことは、紙面全体を一つの画面としてとらえ、一種の絵画的効果を狙ったものでした。これらの表現がやがて文字を使って絵を描く、「葦手絵」へとつながっていったと考えられています。

文字絵 始まる|国立国会図書館

文字が絵に溶け込みやすいのは、漢字がもともと絵だから、ということもあるのだろうか。

絵が漢字になり、漢字がくだけてひらがなになる。その文字がくだけて絵になる、絵と一緒に溶けてゆく、というのは不思議な面白さがある。

この『うた絵』は、単体の絵だけでなく、本の構成も美しく、右の頁に和歌が簡素な形で配置され、左側に和歌の文字と混じり合った絵が描かれている。

どの和歌の絵も軽やかで可愛く、文字が絵の図柄の一片のように溶け込んでいる。

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