僕は、言葉を「言の葉」と書くという発想自体が昔から好きで、こんな風に植物の葉を題材にして表現している感性が素敵だなと思う。葉が使われることによって、言葉がおのずから生まれ出るという様や自分単独では成り立ち得ないという世界観が、より深く印象づけられるような気がする。
ことばという表現は、万葉集の頃には存在していたようで、その表記については、言の羽と書いたり、辞と書いたりと、いくつかの形があったみたいだ。この「言の羽」という捉え方も、映像的でいいなと思う。ことばにすると、羽が生えて飛んでいく。この場所にいながら、鳥のように遠くまでも羽ばたいていく。昔の人は、「ことば」に、そんな光景も重ね合わせたのだろうか。
言の葉という表記が現れるようになるのは平安時代の頃のようだ。有名な文章として、平安時代に編まれた『古今和歌集』の序文の冒頭がある。序文には、仮名序と真名序の二つがあり、仮名序を書いたのが、撰者の一人で歌人の紀貫之。ここでは、和歌とはどういったものか、美しい表現によって描写されている。
最初の一文には、「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」とある。人の心が種となり、様々なことの葉となって繁る、それが和歌なのだ、と高らかな宣言のように書かれている。
必ずしもずっと「言葉」が一般的ではなかったようだが、「言葉」が残っている理由として、この古今和歌集の影響も大きかったのだろうか。個人的な感覚としても、和歌を表現するのに、この序文を踏襲した「言葉」のほうがしっくりくる。人の心とことばとの繋がりが、より密接になっているように思える。
仮名序は、先ほどの冒頭の一節から、以降もしばらく続きがある。全文はもっと長いものの、冒頭部分が、とても繊細で、和歌についてどれほどの想いを込めているかが伝わってくる。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
現代語訳
和歌は、人の心を種として、多くのことばとなったものである。
この世に生きる人は、関わり合う事柄がまことに多いので、心に思うことを、見るものや聞くものに託して歌にするのである。
花に鳴く鶯や、水に住む蛙の声を聞くと、すべて生あるものは、どれが歌を詠まないなどということがあろうか。
力をも入れずに、天地を動かし、目に見えない霊に感じ入らせ、男女の仲をもうち解けさせ、荒々しい武士の心をなぐさめるのは、歌である。
『古今和歌集』(高田裕彦訳注)
多くのものごとに触れると、心が動き、歌になる。世界と自分と表現の連続性が描かれ、鶯や蛙など、生きとし生けるものはみんな歌っている。そして、その歌は、力を入れずとも、様々な力を発揮する。天地を動かし、鬼神をあわれと思わせ、男女の仲をも和らげ、荒々しい武士の心をも慰める。
これは決して大げさにたとえたのではなく、人々は、歌というものの力を本気で信じていたのではないだろうか。