吉田博と瀬戸内海

吉田博は、日本の洋画家、版画家で、大正から昭和にかけて風景画を中心に数多くの作品を手掛けている。もともとは水彩画など洋画の分野で修練を積み、才能を発揮すると、のちに版画家として、渡邉庄三郎が浮世絵文化再興を夢見て始めた「新版画」の作家の一人としても活躍する。

旅や登山を好んだ吉田博は、登山家としての視点から描いた雄大な山々や、海外での旅先の光景を写した異国情緒溢れるモチーフ、また、海景や川など水辺の絵といった多様な風景を、柔らかで詩的な表現によって描写する。それはまるでいつかどこかで見た夢の風景のように、儚く幻想的でもある。

吉田博『光る海』  1926年

海に並んで浮かぶ二隻の帆船と、遠く広がる海面に反射する光を描いた『光る海』は、連作『瀬戸内海集』の一作である。

吉田は、海のなかでも瀬戸内海を好み、船をチャーターして写生旅行に出掛けたと言う。帆船と、余白のある海景。そして、その穏やかな海面に注がれる陽光が美しく、タイトルにある通り、「光る海」に焦点が当てられ、その光が、帆船と余白によって引き立てられている。

また、瀬戸内海と帆船がモチーフの吉田博の作品で言えば、『帆船』のシリーズもある。この作品では、同じ板木を用いて摺によって色合いだけを変化させ、瀬戸内海に浮かぶ帆船という一つの視点において、様々な時間帯や気象を表現する。

描かれる光景は、〈朝〉〈午前〉〈午後〉〈霧〉〈夕〉〈夜〉の6種類で、一日の光や空気の繊細な変化が感じ取れる。

一枚一枚をよく見比べると、光の具合だけでなく、背景に映る他の船や、人々の営みの灯りなどの変化も見られ、たった一つの景色でも無数の広がりが伝わってくる。

吉田博『帆船 朝』

吉田博『帆船 午前』

吉田博『帆船 午後』

吉田博『帆船 霧』

吉田博『帆船 夕』

吉田博『帆船 夜』

ところで、冒頭でも触れたように、吉田博は「新版画」の作家として知られている。

新版画では、吉田博以外に、代表的な画家として、川瀬巴水や高橋松亭、土屋光逸、笠松紫浪などが挙げられる。新版画は、渡邉庄三郎という版元が、衰退する浮世絵文化を憂い、新しい浮世絵版画を、という願いから、大正時代に始まった、ある種の芸術運動である。

新版画とは、版元・渡邊庄三郎(1885〜1962)が大正初年に始めた、浮世絵の彫りと摺りに同時代の画家の絵をあわせて新しい表現を開拓した動き、および作品をさす。だからこの場合の「版画」は、簡単に言えば浮世絵のことである。

「新版画」とは何か。国内有数のコレクションを持つ千葉市美術館の学芸員・西山純子に聞く|美術手帖

長らく水彩画や油彩画を描いてきた吉田だったものの、渡邊との出会いもあり、版画家としての活動を始めることとなる。

新版画では、懐かしい日本的な風景が描かれている作品が多く、当時から海外での評判はよく、アメリカでは1920年~30年代に新版画ブームも起こっている。

新版画の海外での受容においては、新版画を象徴する川瀬巴水を愛したAppleの創業者スティーブ・ジョブズや、吉田博の『光る海』を部屋に掛けていたダイアナ妃がよく挙げられる。

ジョブズが、最初に新版画と触れるきっかけとなったのが、ジョブズの親友でAppleの最初の従業員としても知られるビル・フェルナンデス氏の家に飾ってあった、アメリカの新版画ブームの時代に彼の祖父が手にした新版画コレクションだった。

「スティーブの美意識は私の家で形作られました。彼は『新版画』に引き寄せられているようでした。中でも、森の道を人が歩いている作品は、カリフォルニアにある背の高いアメリカスギの森にとてもよく似ていました。彼が『あれ、カリフォルニア?』と聞くと、母が『いいえ、それは日本よ』と答えていました」

「スティーブが、シンプルですっきりしたもの、自然の木、そういうスタイルのアートや美的感覚がいいと言い出したのは、『新版画』を見てからでした。彼のシンプルさとエレガントさへの愛は、生涯を通じてみることができます。それは、彼が創り出したアップルの製品に表現されていきました」(ビル・フェルナンデス)

スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の版画との出会い

ジョブズが禅に影響を受けていたことは知られているが、それ以前に、新版画の影響が、日本的な簡素な美の感性に惹かれる元になっていたようだ。

ジョブズの新版画コレクションは、圧倒的に川瀬巴水の作品が多く、Appleを設立したのちのある日、ビルさんの母親のバンビさんが、新版画で川瀬巴水に次いで好きな吉田博の話をジョブズにしたら、「巴水こそがベストだ」と言い返したこともあったという。特に、静かで寂しげな作品を好んだようだ。

また、新版画は、現在のアニメとの共通点も指摘され、アニメ監督のイシグロキョウヘイさんは、「吉田博の版画には影響を受けました。業界にファンも多いですよ」と語っている(アニメ作家注目 大正時代の「新版画」が多くの人を魅了する理由)。

二人組バンドであるヨルシカの『左右盲』という曲のMVに関して、制作者の森江康太氏も、新版画の川瀬巴水や吉田博を参考にしたと語っている。

数々の美の影響が、今に連綿と続いている。

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