ヴィルヘルム・ハンマースホイ

ヴィルヘルム・ハンマースホイ『居間に射す陽光Ⅲ』 1903年

誰もいない室内画や建築物、後ろ姿の人物などが多く描かれ、時間の止まったままのような、静寂の画風が特徴的なヴィルヘルム・ハンマースホイというデンマークの画家がいる。ハンマースホイは、1864年に、コペンハーゲンの裕福な家庭に生まれ、1916年に病によって亡くなる。

伝統的な画法を重んじるアカデミーとは一線を画し、陰鬱で薄闇を纏うような独特の画風に、国内において当初は批判が強かったものの、国外のヨーロッパでは高い評価を受けたようだ。

ハンマースホイは、没後、しばらくは忘れ去られたものの、近年オルセー美術館やハンブルク美術館などで回顧展が開かれたことがきっかけに、再評価の機運が高まっている。また、2008年には、「静かなる詩情」と題し、日本でアジア初となる大規模な回顧展も開催されるなど、世界的に知られる画家となっている。

ハンマースホイは、その芸術的な才能を幼い頃に見抜いた母の支援もあり、早くから絵の道を歩んだ。8歳の頃から素描の個人レッスンに通い、15歳でコペンハーゲン王立芸術アカデミーに入学。ハンマースホイが学んだ個人レッスンも、アカデミーも、当時のデンマークの伝統的な芸術教育が基本となったものだった。

一方、アカデミーの古典的な教育に反旗を翻す若い学生たちによって設立された自由研究学校に、アカデミーの傍らハンマースホイは通うようになる。これは、その時代の多くの芸術家たちが通る道でもあったようだ。

学校に通う日々の様子を、ハンマースホイは、兄に宛てた手紙のなかで次のように記している。「私は毎日、朝の8時半から4時までクロイアの学校に行っています。それから急いで家に帰り、夕食を食べ、アカデミーで5時半から7時半まで素描をしています。」同じくデンマークを代表する画家で、ハンマースホイの師でもあった、ペーター・セヴェリン・クロイアは、当時ハンマースホイの絵について、「奇妙な絵ばかり描く生徒がひとりいる。私は彼のことを理解はできないが、重要な画家になるだろうことはわかっている。彼に影響を与えないように気をつけることとしよう」と語っている。

ハンマースホイが公の評価を受けるきっかけとなったのは、1885年、彼がまだ21歳の頃のことだった。美術アカデミーが毎年主催する展示会に、ハンマースホイは初めて絵を出品する。出品された絵画は、二つ下の妹を描いた、『若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ』である。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ『若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ』  1885年

この作品を、アカデミー主催の賞に応募するも、暗い色調や構図、不明瞭な遠近法などが、伝統的なアカデミーの嗜好に合わず落選する。しかし、この結果に、自由研究学校の若い画学生たちが反発し、論争となる。その後、しばらくハンマースホイの評価を巡って論争が続いたものの、デンマーク国内ではあまり評価に恵まれず、むしろ「国外」で買い手がついたり批評家に高く評価されるようになる。

また、この頃、ハンマースホイは、歯科医で美術収集家だったアルフレズ・ブラムスンと出会う。ブラムスンは、彼の絵を購入し、以降も、ハンマースホイの熱心な後援者となり、ハンマースホイの伝記を著すことにもなる。

画風は、17世紀の写実的なオランダ絵画の影響を受け、また、その室内画の多さからフェルメールと比較されることも多い。ただ、フェルメールの絵のような光や温もり、また表情には笑顔もなく、伝統的な価値観を重んじるアカデミーでなかなか受け入れられなかったように、全体に漂う独特の陰鬱さと静寂は、ハンマースホイ特有の魅力でもあった。

ハンマースホイにとって、誰もいない静かな室内画、というモチーフが最初に出てきたのは、1888年の『白い扉』である。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ『白い扉』 1888年

後年のインタビューで、ハンマースホイは、「私は常に、この部屋のような美を思っていた。たとえ人がいないとしても、いや正確に言えば誰もこの部屋にいないからなのだろう」と“誰もいない部屋”における美意識について語っている。

1891年、ハンマースホイは、学友のピーダ・イルステズの妹であるイーダと結婚する。人物画が描かれる際に、イーダは肖像画のモデルとして幾度も登場することになる。また、室内画の多くは、二人が10年ほど暮らした「ストランゲーゼ30番地」のアパートが舞台になっている。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ『アルフレズ・ブラムスンの肖像』 1893年

ヴィルヘルム・ハンマースホイ『ピアノを弾く女性のいる室内、ストランゲーゼ30番地』 1901年

肖像画は、家族や友人、親しい知人など、身近な間柄しか描いていない。これは、肖像画を描くに当たってはモデルのことをよく知っていないといけない、というハンマースホイの考えによるものだった。

その後、ハンマースホイの絵の評価は、国内でも徐々に高まりを見せ、1908年にはアカデミーの総会会員に就任、1910年には同評議員になり、ヨーロッパ各国で個展も開かれるようになる。

ただ、1914年、ハンマースホイの母親が亡くなったあと、ハンマースホイ自身も体調が悪化。咽頭がんと診断され、ほとんど作品を制作することもなくなり、1916年に亡くなる。晩年の作品は、いっそう暗く、鬱々しさが漂っている。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ『ニュ・ヴェスタゲーゼから眺めたクレスチャンスボー宮殿』 1914年

ちなみに、ハンマースホイの画集に関しては、展覧会「静かなる詩情」の図録の他に、数冊が刊行されている。

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