映画『わたしは光をにぎっている』の詩

映画『わたしは光をにぎっている』の詩

『自分は光をにぎつてゐる』

自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌(てのひら)をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる


偶然、『わたしは光をにぎっている』という映画の予告編を観た(主題歌はカネコアヤノさんの『光の方へ』)。この映画のタイトルの由来にもなっている詩が、明治から大正にかけて活躍した詩人山村暮鳥(やまむらぼちょう)の詩『自分は光をにぎつてゐる』。

光をにぎっていることに確信が持てない。からっぽであるかもしれない。けれど、自分はにぎっている。いよいよ、しっかり握る。烈しい暴風、とは何か。それぞれの「烈しい暴風」の経験があり、その経験から、わずかばかりでも掴んだ光がある。あるはずだ、と信じている。

その光を、苦しければ苦しいほど、信じ抜くこと、強く握りしめること。その意志が、闇ごと光に変えてくれる。

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