中原中也については好きな詩や言葉があるというだけでなく、詩人として生き抜いた彼の短い人生そのものに惹かれる。日記や手紙などを読んでも、不器用に真っ直ぐで、周囲と衝突しながらも、純粋にずっと詩のことばかり考えていたんだろうなということが伝わってくる。
その中原中也と友人で批評家の小林秀雄、中也の恋人だった長谷川泰子の三人の関係を背景にフィクションを交えて描いた、『最果てにサーカス(月子)』という漫画がある。中原中也という人となりが、彼の詩に対する考え方とともに描かれている。中也の雰囲気は、なんとなく実写よりも漫画のほうが合っているような気がする。
この作品の主人公は、中也というよりも、その天才的な感性に劣等感を抱き、揺さぶられる小林秀雄という側面が大きい。でも、それゆえに、むしろ中也像が伸び伸びと描かれているようにも思う。この漫画自体は残念ながら途中で打ち切りになってしまった。単行本の売り上げがあまり芳しくなかったようだ。続きが読めないのが悲しかった。
作中では、中也の詩が自然な形でときおり挟み込まれる。冒頭の小林秀雄との出会いのシーン。飲みの席を荒らした挙句酒に酔って起きない中也を小林がおぶって帰っていくとき、道中、目が覚めた中也と少し口論になり、中也が自作の詩を朗読する。
それは美しい情景描写で始まる『月夜の浜辺』という詩で、僕の好きな詩の一つでもあった。
『月夜の浜辺』
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを、捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
月に向かってそれは抛れず
波に向かってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁み、心に沁みた。月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
夢のなかを歩いているような月夜の光景が浮かび、静かな世界なのに波の音も聴こえてくるような幻想的な風景が立ち現れる。淡い世界に覆われながら、随所にほのかな色がついたり音が聴こえたりするような感覚になる。
中也にとっての「ボタン」が何を意味するのか、僕には分からない。でも、僕のなかにも、捨てられない月夜の晩に拾ったボタンがあるような気がする。