作曲家のzmiさんが、以前インタビューで自身の曲について、タイトルをつけることに抵抗があるという話をしていた。タイトルをつけてしまったら、作品が自分の側に寄せられてしまって音楽を聴く人が引っ張られてしまう、それは自由を奪ってしまうことになるのではないか、ということへの葛藤があるようだ。
曲にタイトルを付けることに若干の抵抗があるんです。「雨の踊り子」という言葉を付けたら、雨が連想されちゃうじゃないですか。聞き手の想像の自由を奪うかもしれなくて。
言葉を筆頭に、情報が添えられると、どうしてもそのイメージに捉われ、そのものに触れづらくなる。歌詞のないような曲だと、その傾向はより強くなるのかもしれない。
言葉や情報で装飾することによって見えるようになる一方で、言葉によって説明することが、むしろノイズになることもある。
たとえばりんごが置いてある。そのりんごはこうでこうでこうだ、というようなことが次々追記されると、りんごそのものを食べて味わうよりも、その情報を食べてしまう側面がつよくなる、そんなこともあると思う。
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言葉が浮かぶ前の、そのものに触れる。
歩いているとき、ふと優しく頬を撫でるような、泣きたくなるような、心地よい風が吹く。その風は、なにもタイトルがなくもたらされ、なんの雑学も残さずに去っていく。
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情報によって見えなくなる面がある、という話で言うと、同じく音楽家の高木正勝さんのエッセイ集『こといづ』のなかでも、情報によって見えなくなってしまうことへの気づきが綴られている。
高木さんが仕事でアフリカに行った際、ガイドさんが行うその都度の歴史的な解説が先に入ることで、なるべく情報を入れずに、そのものをただ見ることによって起きるはずだった「自由な勘違い」ができなくなること。また、自由な勘違いのほうが本質を捉えている場合もあるのではないかと、そんな話をしていた。
赤ん坊がこの世界を真新しい感覚で初めて知覚していくように、「これはこれ」と何もイコールで結ばれていない状態で世界を感じるようなものです。
高木正勝『こといづ』
僕自身、知識として知ることも好きではあるし、そのことによって生じる発見もあると思う。すでに知っている情報もある以上、完全にまっさらな世界として見ることも難しい。でも同時に、言葉が膜となって覆ってしまうことで、それそのものに触れられなくなる、というのもほんとうだと思う。
ある人はこういう人だ、こういう経歴だ、といったカテゴライズによって、まるでその人の顔に大きな札が貼られているように、「それだけ」になってしまうかもしれない。
きっと、言葉によって知ることができるし、言葉によって知ってしまうと、わからなくなる面もあるのだと思う。「自由な勘違い」のできる余白は、ときに思いもしなかったような側面を見せてくれるかもしれない。