ジブリ作品は、大人になってからちゃんと観たものも多く、その一つに、『魔女の宅急便』もある。もしかしたら、子供の頃に観たこともあったかもしれない。でも、心に響いたのは大人になってからのことだった。
映画では、魔法使いのキキが、魔女修行のために親元を離れ、町のパン屋さんに居候をさせてもらいながら、飛べることを活かして配達仕事をする。しかし、あるとき突然、キキは飛べなくなる。飛べなくなった原因も分からず、さらに、一緒にいた黒猫のジジの言葉も分からなくなる。この「魔法が使えなくなる」ということが、『魔女の宅急便』の大事なテーマになっている。
魔法が使えずに悩んでいたキキは、途中、ウルスラという絵描きの女性に相談する。このときの二人の会話が、作中のなかで印象的な一つのシーンとして記憶に残っている。飛べなくなったキキの悩みに対するウルスラの回答は、「魔法」に限らず、普段行っている色々なことに当てはまるのではないかと思う。
キキ「私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのか、分からなくなっちゃった」
ウルスラ「そういうときはジタバタするしかないよ。描いて、描いて、描きまくる」
キキ「でも、やっぱり飛べなかったら?」
ウルスラ「描くのをやめる。散歩したり、景色を見たり、昼寝したり、何もしない。そのうちに急に描きたくなるんだよ」
宮崎駿(スタジオジブリ)『魔女の宅急便』
以前は、自然にできていたこと、楽しかったこと。それが急にできなくなる。何も考えずに飛ぶことができたのに、どうやって飛んでいたか、分からなくなってしまうように。日常でも、そういった苦悩はあると思う。
表現の世界でもあるだろうし、スポーツの世界なら、それは「スランプ」と呼ばれるのかもしれない。そして、そういうときは、たぶん、なにか調和が崩れている。体や心の変化であったり、他者との比較を意識してしまったり、社会的な意味を考えてしまったり、考えすぎて行き詰まってしまったり、そういった様々な要因が、それまでの自分の無邪気な自然体を削いでしまっている。
そんなときには、ウルスラの台詞にあるように、ジタバタして、いったんは描いて描いて描きまくる。言ってみれば、そのことに必死に取り組んでみる。そして、それでも駄目だったら、少し離れて、散歩したり、景色を見たり、昼寝したり、「何もしない」。空っぽにして休める。そしたら、また自然と描きたくなる。
やがては、空っぽになった器に満たされていくように、その方向に、再び自ずと進み出す。
二人の会話には、「血」の話も出てくる。魔法使いの血、絵描きの血、パン職人の血。神様か誰かがくれた力。これは、必ずしも、遺伝的なもの、というわけでもないのだと僕は思う。でも、だからと言って、これを「才能」と表現すると、少し意味が限定されてしまうかもしれない。
それよりも、もっと根源的な、内側の「流れ」のようなもの。停滞の先で、何もしていなかったら、「そのうちに急に描きたくなる」ように、再び流れだすもの。それが「血」なのではないか。才能と言ってしまうと、多くの人が、そんな「血」は自分にはない、ということになる。その考え方には、他者との比較や、こんなことをしてもなんの価値もない、といったものが混ざり込んでいるように思う。
そうではなく、子供の頃、これは無心で楽しかったな、好きだったな、といった「比較」と出会う前の、より純粋な感覚。そこに、「かつては飛べたはずの何か」があるのではないだろうか。
ぼんやりとした時間のなかで、自分のなかの、そういったルーツを遡ってみると、今もそのままの形を保っているかもしれないし、姿を変えながら残っているかもしれない、自分の根っこにある「好き」が、はっきりと、あるいは、うっすらと見えてくるような気がする。