ある一編の詩を主題にした、映画を観た。それは、中川龍太郎監督の『わたしは光をにぎっている』という作品で、主題歌のカネコアヤノさんの『光の方へ』という歌も映画に馴染み、また、タイトルの由来になっている『自分は光をにぎっている』という詩も心に響く。
『自分は光をにぎっている』
自分は光をにぎっている
いまもいまとてにぎっている
而もおりおりは考える
此の掌をあけてみたら
からっぽではあるまいか
からっぽであったらどうしよう
けれど自分はにぎっている
いよいよしっかり握るのだ
あんな烈しい暴風の中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあっても
おお石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる
この詩は、明治から大正にかけての詩人である山村暮鳥の『自分は光をにぎっている(詩集『梢の巣にて』より)』だ。暮鳥は、1884年(明治17年)に群馬県に生まれ、1924年(大正13年)に40歳で結核によって亡くなる。
映画『私は光をにぎっている』予告編
光をにぎっていることに確信が持てない。からっぽであるかもしれない。それでも、自分は握っている。生きていることが苦しければ苦しいほど、いよいよ、しっかり握るのだ。
烈しい暴風、とは何か。それぞれの「烈しい暴風」があるのだろう。そして、その暴風のなかで、わずかばかりでも掴んだ光がある。あるはずだ、と信じている。
その光を、苦しければ苦しいほど、信じ抜くこと、強く握りしめること。その意志が、闇ごと光に変えてくれるという、悲しみを背負った上での肯定の詩なのだと思う。
この詩は、映画の冒頭で、「おばあちゃんの大好きな詩」として登場する。監督の中川龍太郎さんは、インタビューで、暮鳥の詩を選んだ理由について次のように語っている。
僕は「自分は光をにぎつてゐる」という詩を、「行き止まり」を生きる覚悟についての詩だと捉えています。
暮鳥さん自身も、詩を書いた当時は不治の病だった肺結核を患っていて、大正末期という日本がだんだんとキナ臭くなっていった時代を生きていた。
その状況の中でも、彼は「自分は光をにぎつてゐる」と信じ、前を向いて生きていこうとしていたのではないでしょうか。
「光」そのものを信じられなくても、「光」をにぎっている自分だけでも信じようとする。その覚悟が込められている詩だからこそ、今の時代を生きる人々と呼応しうると思えたんです。
たとえ、光そのものは信じられなかったとしても、光を握っている自分だけは信じようとする。不安のなかだからこそ、その意志は切なさも纏っているように思える。