言葉と孤独は、分かち難く結びついている。感情や風景を言葉で表現しようとすれば、必ず実態とずれる。若い頃にダダイズムの影響を受け、その後、禅に傾倒した詩人の高橋新吉は、「言葉は虚偽である、言葉なき絶対の愛の世界に生きねばならぬのだ」「物を言い始めたことは 人類の堕落の第一歩だ」と綴っている。
言葉は、まず自分自身に嘘をつく。この嘘が、最初に一つの孤独を生む。自分と、表現したいこととの乖離。言葉で正しく捉えることのできない寂しさ、満たされなさが、孤独感に繋がる。加えて、その言葉も、他者に正しく伝わらない。厳密に、細かく見れば見るほど、分かり合えない、理解されない、という感覚に苛まれる。
世の中の現象の多くを、ざっくりと名称で区切る。たとえば、病名もそう。同じ病名だと、一瞬、分かり合えるような気がする。同じ空間に入ったように思える。しかし、実際は、あらゆる者が、状況も、歴史も、精神や身体の容量も、感受性も異なる。だから、「同じ」だと錯覚したまま進んでいくと、次第に「違い」が目につくようになる。
幻想が現実となり、幻想と現実の差に落胆し、孤独がまた一つ深まる。
人は、一人一人では、いつも永久に、永久に孤独である、と書いたのは、詩人の萩原朔太郎だった。この言葉は、朔太郎の詩集『月に吠える』の序文の一節である。
人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。
けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
萩原朔太郎『月に吠える』
誰一人として、同じ状況で、同じ光景を見たことはない。全く同じ体験というものはなく、また、誰もが決して同じ感受性を持っていることもない。必死に共有を試み、言葉に頼ったとしても、言葉もまた虚偽の世界であり、この現実を真っ向から直視すれば、「永久に、永久に、恐ろしい孤独」となる。
とすれば、人間は、一人一人が、世界からぽつんと切り離された永遠の一人ぼっちなのだろうか。個々が異なっていながら、しかし、一方で、共通の面を持っている、と萩原朔太郎は、同じ文章のなかで書いている。
とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。
私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。
萩原朔太郎『月に吠える』
孤独でありながら、共通の面がある。その同じ部分を発見することによって、「道徳」と「愛」が生まれる。これは人間同士だけでなく、人間と自然においても言える。そして、その発見があったとき、「我々はもはや永久に孤独ではない」。この繋がり得る焦点に、詩歌のよろこびと秘密性がある。
自分のなかに現れる感情を表現することは容易ではなく、「言葉は何の役にもたたない」と朔太郎は書く。もし表現しようと思うなら、重要な要素は、音楽と詩であり、「リズム」だと言う。このリズムを共有する読者とのみ、「私は手をとつて語り合ふことができる」。リズムを表現し、詩の奥に流れるそのリズムを感知できた瞬間、孤独はほどける。
詩人とは、このリズムを発見する者だ、と言う。そしてまた、孤独な人間が、詩歌によって繋がり得る、その詩とは、一体どういうものか、ということに関して、次のように描写する。
詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。
以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の叡智との交霊作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。
詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。
私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。
萩原朔太郎『月に吠える』
詩とは、神秘でも象徴でも鬼でもなく、人間や自然のなかを流れるリズムの発見であり、永久に孤独であるかもしれない人類を救う一つの道となりうるのだろう。