日本文化の特徴の一つとして、よく「もののあはれ」という言葉が使われる。
これは平安時代の王朝文学を説明する際に用いられ、情緒的な日本の美意識を簡潔に述べた言葉である。
もののあはれとは、「自然の移ろいや人生の機微にふれたときに感じる情趣(サントリー美術館「もののあはれ」と日本の美)」を指す。分かりやすく言えば、自然や人生における、情緒的で繊細な悲しみの感受性といった意味だろうか。
このもののあはれには、仏教的な世界観である「無常観」が下敷きにあると考えられる。
無常とは、「一切のものが、移りゆくこと、生じたり変化したり滅したりしながら、一定のままではない」ということである。
そして、無常観とは、「全てのことが無常であるとする見方。また、静かに瞑想し、無常を観ずること」を意味する。
あらゆることが行き過ぎていく、この世界を無常のものとして見ることが無常観であり、この無常観を描く代表的な作品として、鎌倉時代に書かれた鴨長明の随筆『方丈記』が挙げられる。
特に、『方丈記』の冒頭は、無常観を巧みに描写した文章となっている。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
鴨長明『方丈記』
川の流れはとどまることがなく、しかも、もとの水とも違う。よどみに浮かんでいる水の泡は、消えたり生まれたりを繰り返しながら、長いあいだとどまっていることもない。世の中にある人と家とも、この流れと同じようである、という意味であり、まさに、この世は無常である、という様を描写している。
それでは、一体なぜ、この仏教的な思想であり、本来無色透明にも思える無常観が、芸術、もっと言うと、彩り豊かな「美」と結びつくのだろうか。
無常観が、美と結びつく要因としては、四季折々で様々な風景を見せる、日本の風土が深く関係しているのかもしれない。
海外にも、もちろん四季はある。ただ、日本の場合、四つの季節がある、というだけにとどまらず、たとえば和歌に描かれるように、春夏秋冬、また花鳥風月が、絶妙な調和を保ちながら寂しげに移りゆき、その風景に囲まれながら育まれた彩りの感覚が、内心の悲しみと波長を合わせ、そして、「ああ」というため息がこぼれるとともに歌になる。
もののあはれ、というときの「あはれ」は、「ああ」というため息が由来だという話がある。
日本人が仏教から受けた影響でもっとも大きなものの一つに無常観がある。無常観とは、この世のものはすべて変化し消滅していくものだという教えである。
元来、仏教ではそうした無常観こそが人間に苦しみをもたらすと説いていた。
しかし日本人は、この世は無常であるからこそ、一瞬一瞬が貴重であり、味わい深いのだと肯定的に理解した。
こうした考え方は、変化するもののうちに美を見いだそうとする発想となって日本のさまざまな芸術や芸能の底を流れる美意識を形成した。
その代表的なものが「あはれ」という美意識である。「あはれ」とは、自然や人間の無常を知り、思わずでるため息に由来するといわれているが、そこにこそまた深い慰めがあるのだとされた。
自然は、豊かで恵みをもたらし、彩りも美しく、また儚くもあり、次々と移りゆく。一方で、地震や津波、噴火など一瞬ですべてを飲み込む暴力性も持ち合わせている。この自然のなかで無常観と美が結びつき、もののあはれとして育まれていったのではないだろうか。
散ってゆくもの、暮れてゆくものが、寂しく美しい、というのは、日常を眺めていると実感する。
それは以前に書いた芥川龍之介の遺書に残されている「末期の目」とも通じるものではないかと思う。
この「無常観が、なぜ美的に表現されるのか」という疑問について、思想家の唐木順三も、『詩と死』という随筆集のなかで触れている。鎌倉時代の僧侶である一遍を論じた文章で、一遍は、一切捨棄一切放下を言い、実行してきたのにもかかわらず、修辞だけは捨てきれないのはなぜか、と唐木は書く。
一遍が無常をいうとき、そこにはなにか浮々としたもの、嬉々としたものがあり、無常をいうことにおいて、格別に美文調に、雄弁になる傾向があるのはなぜか。
そういう問題が私の頭の中にある。「苦」とか「無常」とかをいう場合に、格別に美文調になるということは、変なことである。奇妙といってもよい。
その変で奇妙なことが、ふりかえってみれば、日本ではむしろ当たり前のこととなっている。「はかなし」「はかなき」「はかなびたる」という王朝女流文芸に頻々と出てくる言葉も、横か裏から見れば、「はかなきものは美しきかな」というような、美的理念とさえ思われる場合が多い。
それは「あはれ」の場合と同様に、日本人の心情の深いところに関連していることである。
無常の場合も、古くから「無常美感」などといわれるように、無常をいうとき、日本人の心の琴線は、かなしくあやしき音をたてる。
我々のセンチメントは無常において、最もふさわしくみずからの在り所に在るという観を呈している。『平家物語』や『方丈記』がいわば国民文学として愛誦される所以も、その祇園精舎の鐘であったり、かつ消えかつ結ぶ水の泡だったりする。
そういうことは既に常識にさえなっているのだが、これは随分奇妙なことといわねばならぬ。
唐木順三『詩と死』
一遍は、無常を言いながら、その語り口が嬉々とし、雄弁で、美文調である。あるいは、『平家物語』の祇園精舎の鐘の音も、『方丈記』のかつ消えかつ結ぶ水の泡も、なぜか不思議と美しくもある。これは「奇妙」だ、と唐木順三は繰り返す。
しかし、無常観が美と結びつくことを、日本人は当たり前だと思っているので、さして奇妙だとは感じない。「はかなきものは美しきかな」が根付いている。そのこと自体が、実は随分と奇妙なことであると指摘する。
しかも、一遍の場合は、文芸や物語の作者でもなく、一切を捨棄すべきという僧侶にもかかわらず、美文調を捨てられないことが、いっそう奇妙だ、と言う。
個人的には、「はかなきものは美しきかな」と感じる所以として、日本の自然の特性や影響は切っても切り離せないものだと思っている。
ただ、唐木順三の考えによれば、これは日本人の特殊な性格というよりも、無を徹底すれば、案外そこには詩的な世界が広がっているのではないか、と言う。
それは単に一遍また日本人という特殊な存在の特殊な性格によるのではなく、一切捨棄、意識捨棄、捨棄の捨棄というところまで徹底すれば、即ち、無我、無心というところへ超出すれば、その世界は案外に、リズムをもった、美的な、調和ある、いわばポエジイの世界ではないかと、実はそういうことを思い思いしているのである。
唐木順三『詩と死』
確かにその通りのような気もする。しかし、無常観と自然のリズムとが一致しなければ、無我や無常の先に、美的で調和のある詩的な世界が広がっている、とはならないようにも思う。
いずれにせよ、日本で一般的な感受性として浸透している無常観と結びついた「もののあはれ」は、今も文化的に重要な源泉となっていることは確かだろう。
かつて詩人の中原中也は、「物のあはれがなかったら、この世はどうにも仕方のない焦慮と、他にあればほくそえむことだけくらいだ」と書いている。