言葉の手を解く

文章を書く際、言葉を強く握りしめてしまうことがある。それは論理であったり描きたい風景であったりする。正しく伝えたい、と思うほどに力みが生じる。でも、もし繊細さを精確に保った上で伝えようとするなら、この握りしめた手をそっと解かなければいけない。

この「手を解く」感覚を象徴的に教えてくれる話として、鎌倉時代の僧侶である一遍上人のエピソードがある。一遍が、まだ禅僧のもとで修行中の頃、禅の見解けんげ(仏教用語で、修行者が師に自分の悟りの境地について表現すること)として和歌を提示した。その和歌が、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」だった。しかし、この歌に対し、禅師は、「下の句に工夫をされたらどうですか」と指摘した。それから、再び一遍は坐禅を徹底し、その後、もう一度和歌を提示した。それが、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という歌だった。その一遍の歌に、禅師は、「まさにこれです」と何度も頷いたと言う。

最初に示した歌の下の句にある「南無阿弥陀仏の声ばかりして」というのは、まだ声を聞いている自我、というものが残っている。一方、後者の「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」というのは、自他の境界線が消え、一体となっている。それがまさに、仏もわれもなかりけりの境地ということではないかと思う。

この話は、「手を解く」という感覚と通ずるものがあるように思う。最初の歌では、唱えれば、仏も我もないのだ、と思う自己がまだ残っていたが、唱えるうちに、その境界線がなくなっていく。掴みながら、放たれていく感覚が、この和歌の変化から感じ取ることができる。

哲学者の梅原猛は、禅問答を和歌という手法で行ったのは一遍上人のみとし、「天性の詩人」と称しているが、この逸話によって語られていることは、詩にとっても大切なことを示唆しているように思う。自我で握りしめているなら、そっと手を解く。少しだけ委ねてみる。委ねることで、より一体となって真実に近づき、詩的な世界に入っていく。

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