夏目漱石と「月が綺麗ですね」
作家の夏目漱石が、I love youを、「愛している」ではなく、「月が綺麗ですね」と訳した、という有名な逸話がある。
これは英語教師をしていた頃の夏目漱石が、「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した教え子に対し、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですね、とでも訳しておけば足りる」と言った、という話である。
この逸話は、事実なのか、それとも嘘なのか、といった議論はあり、実際には漱石は言っていない、という声も少なくない。
確かに、出典を調べても、定かではないようで、図書館のレファレンス事例を見ても、結局根拠となる文献は見つからなかった。
Q.夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとされる根拠となる文献はないか。
A.確かな根拠を示す資料を見つけることはできませんでした。
逸話そのものが記載されている資料自体がほとんどなく、このレファレンスデータによれば、福田眞人『明治翻訳語のおもしろさ』の一三六ページに、“漱石は、それを「月が奇麗ですね」と訳したとされる”とあるものの、更なる細かい出典等の記載はないようだ。
この夏目漱石の逸話を、最初に誰が言い出したのかすら、今のところわかっていないという、まさに伝説めいた話である。
それでも、これほど浸透するということは、この「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳する、という感性が、すでに説得力を持っていたということなのだろう。
夏目漱石が教え子に言ったとされる台詞、「月が綺麗ですね、とでも訳しておけば足りる」というのは、どうも「月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」というパターンと二通りあるようだ。
僕が以前何かの本で読んだ際には(これがなんの本だったか忘れてしまった)、「月が綺麗ですね、とでも訳しておけば足りる」という記載だった。
漱石が言ったとされる、この「足りる」という表現が、とても印象に残っている。
足りる、ということは、I love youを、直訳して、「私はあなたを愛しています」や「我君を愛す」と訳したら、「多すぎる」ということである。
ちなみに、「愛する」という表現は、西洋文化がどっと入ってくる明治以前の日本にはなく、西洋語「love」の翻訳語として、明治以降に輸入された概念のようだ。
西洋の世界では、愛というのが「私」にあり、その愛を、「あなた」に渡す、というニュアンスがあるのかもしれない。
一方で、漱石の逸話にあるような、「月が綺麗ですね」という言葉によって愛が表現される、と考えるということは、愛が、ふわっと、「その空間に立ち現れる」といったような捉え方をしているように思う。
余白という点で解釈すれば、「愛している」と言ってしまうと満ち足りているがゆえに余白がなく、「月が綺麗ですね」と零すだけなら余白が残る。
この余白の空間に宿った「何か」が、愛と称されるものだ、という感性があるのではないだろうか。