村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭は、「完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」という一節で始まる。
これは、主人公の「僕」が大学生の頃に偶然出会った作家が、彼に向かって言った言葉で、「完璧な文章」が存在しないということが、ある種の慰めになっていた、と書かれている。
実際、村上春樹さん自身にとっても、村上作品の最初の一行でもあるこの一節はとても重要なものだったようだ。
小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです。(「宝島」83年11月号)
それでは、この「完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」という一節には、一体どういった意味が込められているのだろうか。言葉について「僕」が記述する序章のなかで、冒頭の一節と密接に関連している文章として、次の部分が挙げられる。
それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。たとえば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
村上春樹『風の歌を聴け』
正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。
村上春樹『風の歌を聴け』
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。 どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。
村上春樹『風の歌を聴け』
言葉は、限られた空間しか照らすことができない、という現実に加え、認識の限界もあり、必ず「完璧さ」からこぼれ落ちる運命にある。
一方、完璧な絶望、というのは何か。最上の、あるいは、最悪の、普遍的な、一切隙のない絶望、誰にとっても当てはまる絶望、ということだろうか。ギリシャ悲劇のように、深い絶望的な悲劇の形というのは昔からあるかもしれない。でも、絶望のあり方は、人によっても、時代によっても違う。
人生が限定的である以上、完璧な絶望は存在しない。同様に、言葉が常に限定的であり、また人の認識も千差万別で、かつ正しく認識することができない以上、完璧な文章というのも存在しない、ということではないか。
そして、だったら、言葉にすることは全部が無意味だ、と思うときもある。しかし、『風の歌を聴け』の「僕」は(そして、おそらく村上春樹さん自身)、「今、僕は語ろうと思う」とペンを執る。なぜ書くのか。それは「自己療養へのささやかな試み」とある。もちろん、「完璧な文章」でないゆえに、即座に完治する、といったことはないかもしれない。特に大きく事態は変わらないかもしれない。それでも、と僕は言う。
それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
村上春樹『風の歌を聴け』
村上さんにとって一番最初の小説の一番最初の部分だからこそ、その想いというのが最も瑞々しい形で込められているのではないかと思う。