画家ヴラマンクの絵と遺言

モーリス・ド・ヴラマンク『雪の街道』 1931年

惹き込まれる強さがある。画家の内面的な動きと、描かれる世界との結びつきが印象的な雪景色の絵。

作者のモーリス・ド・ヴラマンクは、ゴッホやセザンヌの影響を受け、絵画の歴史的には、20世紀初頭の“フォーヴィスム”に分類されるフランスの画家である。

ヴラマンクは、1876年にパリで5人兄弟の2人目として生まれ、1958年に82歳で亡くなる。

父親がヴァイオリン教師で、母親がピアノ教師という音楽一家の家庭環境で育ち、幼い頃から音楽に親しんできたが、一家の金銭事情は厳しく、祖母の暮らす田舎に引っ越すこととなる。

根っからの自由人で、後に独学の画家となるヴラマンクは、小学校の頃から勉強が嫌いで、大人が提示してくる「勉強」には、全く興味が持てなかったようだ。

私は自分が好きなもの、好奇心を呼び起こすものについては、よく理解し吸収しようとしたが、「勉強」というようなものは嫌いであった。

モーリス・ド・ヴラマンク

ヴラマンクが9歳のときには、11歳の姉が急死する、ということもあった。父親が泣いているのを見たのは、唯一そのときだけだったと言う。

また、少年時代の田舎での生活から、ヴラマンクは自然への親愛の念が育まれ、ある春の日の思い出を次のように綴っている。

ある春の朝、苗木屋の馬車が私たちの家の前で止まった。祖母が小さな灌木と、花を注文していたのだ。明るい太陽が、喜びに震える物すべてに降り注いでいた。

(中略)

根から引き抜かれた木々たちは、今にも芽吹きそうな芽をすでにつけており、芳香のある樹脂がもうすぐ開く葉を覆っていた。若かったとはいえ、何かが起こるという直感がした。私はこれに春を思わせるものを感じ取った。私はこの春を告げる新しい命を今年もまた感じて理屈ぬきで幸せだった。この年から、私はひとつの強い感動を保ち続けている。それは木々や花々を愛したことによって生じたものであった。

モーリス・ド・ヴラマンク

生涯に渡る、自然への親しみは、少年時代に築かれたものなのだろう。

また、若かりし頃には生活の糧にしようとヴァイオリンで生計を立てることもあったが、収入が少なく、早くに結婚したこともあり、生活は苦しかったようだ。一方で、自身の屈強な体を使って自転車レースに出場し、家計の足しにするなど、画家としては異色の経歴を持っている。

親は、もともと音楽家や作曲家にしたかったようだが、ヴラマンクは捕われない生き方を好み、やがて画家の道を本格的に目指すようになる。

ヴラマンクが絵を始めたのは、17歳の頃のことだった。

デッサンを学ぶために学校には行ったものの、油彩画はほとんど独学で身につけた。以降、自身の絵のスタイルは、ゴッホなど少数の敬愛すべき画家の影響を受けながら独学で築き上げていった。

当初、絵を描くことはヴラマンクにとって趣味程度のものに過ぎず、一時は絵からも距離を置いていたものの、転機が訪れたのが、画家を目指していたアンドレ・ドランとの出会いであった。

二人は、偶然の出会いを経て、まもなく意気投合し、翌年、パリで開かれたゴッホの大規模展(ゴッホはこの約10年前に亡くなっている)に共に行った。

そして、そのとき見たゴッホの絵に、ヴラマンクは深く感銘を受け、以来、ゴッホを心の師として尊敬するようになる。

また、このゴッホ展で、ヴラマンクは、アンリ・マティスとの出会いもあった。マティスが32歳、ヴラマンクとドランが20代の頃である。

それからまもなくの1903年、ヴラマンクは、マティスら若い画家たちと、グループ展を開催することとなり、心に感じた色を描こうとする彼らの作品は、評論家によって「野獣」と揶揄され、野獣派フォーヴィスムと称されるようになる。

しかし、わずか数年で、このフォーヴィスムの動きは収束。セザンヌの回顧展が開かれると、パリの美術界は、セザンヌの形態の捉え方に影響を受け、ピカソやブラックが創始者のキュビスムに向かっていく。

ヴラマンクは、セザンヌの影響を部分的に受け継ぎつつも、流行に流されることなく、独自のスタイルを進み、また色彩も、ゴッホのような鮮やかな色から、徐々に暗い色調を帯びるようになっていった。

ゴッホ、セザンヌの影響を内面化しながらも、1920年代以降、より明確に、ヴラマンク独自の画風を獲得していくこととなる(参考 : 古谷可由「ヴラマンク展図録内  “日本人が愛したヴラマンク”」)。

モーリス・ド・ヴラマンク『春の村』  1910年

モーリス・ド・ヴラマンク『コンポート皿とコーヒーポットのある静物』  1910-11年

モーリス・ド・ヴラマンク『雪の村通り』 1928 – 30 年

モーリス・ド・ヴラマンク『雪の村通り』 1939 – 40年

ヴラマンクは、理性で解釈し、概念を提示するような理論的な芸術とは距離を置き、自身の感性に従った独自の道を深めていった。

それは、世界を真っ直ぐに眺め、見たままに描く、マネの姿勢から始まった印象派の流れを忠実に継承したスタイルと言えるのかもしれない。

ヴラマンクはまた、絵だけでなく、小説を出版するなど、文章も数多く残している。

彼にとって、文章は決して絵を補完するための材料ではなく、言葉にも強い思い入れがあったようだ。

ヴラマンクの書いた文章のなかで象徴的なものとして、亡くなる2年前に残した、自身の人生観、芸術観を綴った遺言がある。

この遺言は、存命中の1957年に公表されている。

ヴラマンクの死後、墓石には、墓碑銘として、この遺言の末尾にある、私は、決して何も求めてこなかった。人生が、私にすべてのものを与えてくれた。私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきたという言葉が刻まれている。

モーリス・ド・ヴラマンク 1955年

ヴラマンクによる「私の遺言」は、自然を愛し、素直な感情の表出を重んじ、独学で歩んできた画家にふさわしい力強い文章となっている。

最後に、この遺言のなかで、個人的に好きな一節を含む一部を抜粋したいと思う。

これは私の遺言である。

私は現在80歳である。人生は短い。しかし、私は、いまだに空を見ることができることに驚いている。この世界で人間の生命を脅かしてきた何千もの突発事件を免れ生きてきたことに驚いている。

また私は、文明人が生み出した科学の野蛮さにこれまで耐えることができたこと、それでも恥ずかしさのあまり地下を這う虫にならなかったことに、自ら驚いている。

人生とは、指先で触れてわかるものである。人生とは、目の前に現れ、直接感覚に働きかけるものである。

(中略)

苦悩は、深い傷跡を残す。愛の悲しみの涙は、決して消えることはない。その涙の苦い味が口の中に残る。それでも、人が良い歯を持ち、空腹であれば、固いパンもとてもおいしく感じるものである。

美しい声を持つ人々は、たとえ苦痛にあえいでいても、歌うであろう。

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