“言葉”の由来と、古今和歌集・仮名序

言葉と書いて、ことばと読む。言葉とは、普段使っている日々の文字や発言などを意味し、この言葉によって人々は自身の思考や心情を伝え、交流を深める。

言葉は、少し文学的に“言の葉”と表現することもある。“言葉”と言っているときにはあまり意識しないものの、言葉には、植物である葉っぱの文字が使われている。

僕は、“言葉”という風に、ことばを植物のように捉える感性が好きだ。そのことによって、自ずから生まれる様や、自分単独では成り立ち得ないという世界観が、より深く印象づけられる。

それでは、一体なぜ、言葉は、“言の葉”と書かれ、いつ頃から、“言葉”と表記されるようになったのだろうか。

国語辞典編集者の飯間浩明さんによれば、「ことば」という表現自体は、8世紀の万葉集の頃には存在したものの、“言葉”という表記はなく、“言羽”や“辞”が使われていたそうだ。“言羽”というのは当て字で、“辞”は漢字の意味から取ったと言う。

そもそも「ことば」は、「ことの」という意味合いに由来する。この「こと」というのは、「事」であるとともに「言」でもある。古代では、事実としての「事」と、口から発する「言」は区別しなかったのでないかと考えられ、現代で言う「ことば」の意味合いで、「こと」という表現も多く使われていた。

この両者の意味が分化されるようになり、「ことの端」というニュアンスから「ことば」が生まれる。

端とは、山の稜線を指す「山の」といった言葉もあるように、端っこのことで、口から発する「言」の一端という意味から、ことばになったようだ(僕はてっきり、ことばでは物事の全てを表現はできず、“事の端”を表すのみ、というニュアンスに由来するのだと思っていた)。

「ことば」という名詞は、日本語に古くからあります。8世紀の「万葉集」にも出てきます。この歌集は万葉仮名(漢字)で書かれているので、当時、「ことば」をどう書いたかが分かります。

本文で「ことば」と読む部分の表記は、「言羽」「辞」となっています。「言羽」は当て字、「辞」は漢字の意味を用いた表記です。「言葉」の表記は出てきません。

「ことば」は、語源的には「葉」と関係がなさそうです。その成り立ちは、「こと(言)」+「は(端)」と考えられます。

「ことば」|分け入っても分け入っても日本語

この“ことの端”としての「ことば」に、“言羽”という字が当てられたようだ。なぜ“羽”という字が使われたのだろう。ことばにすると、羽が生えて飛んでいく。この場所にいながら、鳥のように遠くまでも羽ばたいていく。昔の人は、「ことば」にそんな光景も重ね合わせたのだろうか。

ことの端や、言の羽から、“言の葉”という葉っぱを意味する表記が使われるようになったのは、どうも平安時代の頃からのようだ。

言の葉という表現でもっとも有名な文章は、平安時代に編まれた勅撰和歌集である『古今和歌集』の序文「仮名序」の冒頭の一節で、和歌がどういったものか、的確で美しい表現によって描写されている。

古今和歌集は、四季や恋の歌を中心に、その当時の和歌が集められ、仮名序と真名序の二つの序文があり、この仮名序を書いたのが、撰者の一人で歌人の紀貫之である。

仮名序の最初の一文、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」

現代語訳すれば、「和歌というものは、人の心が種となり、様々な表現の葉となったものである」といった意味になる。心を種として、様々なことの葉となって繁る。それが歌なんだ、という詩的な表現になっている。

ことの端や、言の羽ではなく、“言の葉”が残っている理由として、この古今和歌集の影響も大きかったのではないだろうか(ただ、必ずしもずっと“言葉”が一般的なわけではなかったようだ)。

個人的な感覚としても、和歌を表現するのに、この序文を踏襲した“言葉”のほうがしっくりくる。ことの端や、言の羽は、「ことば」のほうに重きを置いているが、仮名序の表現では、人の心とことばとの繋がりが、より密接になる。

ちなみに、仮名序は、先ほどの冒頭の一節から、以降もしばらく続きがある。

全文はもっと長いが、冒頭部分が、とても美しく、和歌についてどれほどの想いを込めているかが伝わってくる。

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。

世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

花に鳴くうぐいす、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。

力をも入れずして天地あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神おにがみをもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士もののふの心をも慰むるは、歌なり。

現代語訳

和歌は、人の心を種として、多くのことばとなったものである。

この世に生きる人は、関わり合う事柄がまことに多いので、心に思うことを、見るものや聞くものに託して歌にするのである。

花に鳴く鶯や、水に住む蛙の声を聞くと、すべて生あるものは、どれが歌を詠まないなどということがあろうか。

力をも入れずに、天地を動かし、目に見えない霊に感じ入らせ、男女の仲をもうち解けさせ、荒々しい武士の心をなぐさめるのは、歌である。

『古今和歌集』(高田裕彦訳注)

多くの物事に触れ、心が動き、歌になる。世界と自分と表現の連続性が描かれ、鶯や蛙など、生きとし生けるものはみんな歌っている、ということを書く。

そして、その歌は、力を入れずとも、様々な力を発揮する。天地を動かし、鬼神をあわれと思わせ、男女の仲をも和らげ、荒々しい武士の心をも慰める。

これは決して大袈裟に喩えたのではなく、彼らは表現というものの力を本気で信じていたのではないだろうか。

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